成長の時代の終わり

   


 成長の時代が終わりを告げている。人間の暮らしの成長の限界というものがあるよう
だ。暮らしを豊かなものにしたいと、20世紀先進国と呼ばれる国が頑張ってきた。確かに先進国での暮らしは、見違えるほど豊かなものになった。子供のころ車のある暮らしなど夢のようなものだった。

 高度成長期を経て日本人の暮らしも豊かすぎるほどになった。まさか海外旅行ができるようなことがあるとは思いもしなかった。一生に一度でいいから飛行機に乗ってみたいものだと子供のころ、思い描いていた。高度成長期に成長したことほど幸せなことはなかったと思う。

 日に日に暮らしが豊かになったのだ。がんばって働けば、収入が増えた。所得倍増が現実になった。やる気が満ちた社会だったと思う。健全な空気があった。民主義をアメリカがくれたことで、こういう前向きな社会が現れた。多分素のことで占領軍アメリカが日本に受け入れられたのだろう。

 下の家では田植え機を買うそうだとか。トラックターをどこそこで買った。中学生のころ、藤垈の暮らしにもプロパンガスが来た。薪で煮炊きしないでもよくなったのだ。暮らしは様変わりになった。楽しみだった12月の薪づくりがなくなったのだが、暮らしはずいぶんと楽になった。

 そうして先進国は社会を一変させてゆく。日本社会は戦争で一度ご破算になったことが幸いしたのだろう。焼け跡から不死鳥のように新しい会社が次々と登場し、世界の市場に乗りだしていった。安くて、勤勉で、優秀な労働力が日本の強みだったのだ。農村部からは金の卵と呼ばれた中卒の子供たちが都会に働きに出た。

 工業化社会である。日本も世界をリードするような工業製品を作り出し、猛烈社員というような社会になる。日本の総理大臣がヨーロッパでトランジスターラジオのセールスマンと呼ばれたのだ。一次産業が社会の中心から周辺部に、位置づけが変化していった。日本はいち早く産業を近代化できたのだ。

 日本は世界一になるのだというような勢いに乗って、そうした工業製品の生産拠点を賃金の安い、中国やアジアの国々に移していった。ところが、そうした先進国の生産拠点だった国々が、生産力を向上させ、日本をしのぐような製品を作りだ。中国が独自の製品を作り始める。

 当然日本製品と競争になる。最初はまだ中国製品だからまねだけだと揶揄していた。日本製品の品質の良さがまだ世界で評価されていたのだが、いつの間にか安いからと使っている内に、製品の質も日本製品と変わらないと言うことになった。人間の能力はそうは変わらないのだから、安くて上質な労働力があれば、どこの国も大差なくなる。

 そして、21世紀になるころには、日本の成長神話が終わっていた。世界の経済競争が深刻化して、中国の国家資本主義が断然有利さを保つようになる。日本の10倍の労働力がある国が、一致団結して製品を作るのだから、競争力が高まるのは当然のことだろう。

 政府は中国の経済は明日にでも崩壊するというような見通しを、アベ政権は大本営発で吹聴していたが、次第に日本の衰退が明らかになる。日本も大企業に経済を集中させて、国際競争力を高めようとしたが、企業は内部留保を高め、自己保身に専念する。新しい製品の開発は日本からは失われてゆく。第3の矢は放たれることがなかった。

 日本は半導体産業では世界の半分以上を生産するような主要国であった。そのほかの環境関連の製品も日本から新しい製品がまだ登場していた。ところが、IT産業と言われるような、新しい分野の製品が登場すると、それまで中堅の国と言われていた国々の方が、日本よりも優秀な製品を作り始める。

 IT産業が登場するようになってから、日本は遅れが目立つようになる。日本製品は優秀とまでは言えなくなった。電化製品や、電気自動車の分野では中国が急速に技術力を高める。スマホやパソコンや、テレビモニターなど、日本製品はなかなか国際競争ができなくなる。特に半導体の遅れなど、なぜこんなことになってしまったのかと驚いてしまう。

 アジア各国が日本と同等の技術力と開発力を持つ時代になるのは、時間の問題だったのだ。その展望を持てずに、安倍政権はいつまでも過去の経済モデルから抜け出ることが出来なかった。それも仕方がないことかもしれない。新興国家のエネルギーはいつも爆発的なものなのだ。

 今日より明日がよくなるという、希望に満ちた社会にはいったん安定を得てしまった社会では太刀打ちが出来ない。そして、こうした競争が繰り返しながら、どんぐりの背比べになり、新しい局面に至るのではないだろうか。成長の鈍化である。成長がない社会の中で、それぞれの新しい安定を模索する時代。

 こうなると、中国が過剰生産をして、ダンピングとまでは言えない価格であっても、格安なのだ。世界市場に格安の中国製品が販売されることで、国内の産業が成り立たなくなる。そこで多くの国が中国製品に高い関税をかけることになる。

 今は落ち着く前の経済戦争の時代に入りつつあるのではないだろうか。中国はロシアや途上国と連携してアメリカを中心とする経済圏と対抗を始める。誰かをつぶさない限り、自分が成り立たないところまで、経済が肥大化したのだ。生産競争が頭打ち
になったということだろう。

 これからインドやアフリカの生産力も上がり、この状況はより深刻化してゆくはずだ。日本がいち早く高度成長ができたのは、途上国がたくさんある状況だったからだ。しかし、世界の技術水準が平準化し、日本が中堅国の一つになってみると、膨大な数の中堅国があり、もう市場にはものがあふれていて、新たな商品が入り込む余地がないことが見えてきた。

 日本の産業界は何とか昔の夢よもう一度と考えているようだが、不可能なことだと思う。豊かさをどこかの国が独占はできないところに来ている。もし独占しようとすれば、世界大戦が始まるだろう。アメリカであっても、一国主義で豊かさを求めることは不可能になる。ほどほどのところで安定を探すほかない。
 
 世界は新しい局面に入らなければ、大混乱になる。つまり成長の時代の終わりである。昨日も今日も明日も同じ日が続くと言うことだ。豊かになると言うことは終わりにして、生きると言うことを十分に味わい深めると言うことになる。ものによる豊かさよりも、心の豊かさが大切になる。

 日本はそういう社会を一度作り出している。江戸時代である。江戸時代の見直しは、日本だけでなく世界の平和のためにとても重要になるはずだ。もちろん江戸時代の封建制度とか、男尊女卑というような、様々許しがたいことはある。しかし、ものの豊かさよりも文化や芸術を味わう豊かさのある江戸の社会。

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