水彩画の描き方
わかば水につかる。
絵の描き方がすこしづつ動いている。画面の状態としては色が濃くなっている。淡い描き方の絵も時々でては来るのだが、大抵は強い色になっている。それは石垣の色彩と言うことでもあるのだろう。強い光線下ですべての物がくっきりとしている。それがいつの間にか絵に反映してきたようだ。
もう一つの要因は絵を描きながら、絵の中で求めている何かへの探究の過程が画面に残るように、描いている。どうやって完成の画面に進んだのかが見て分かる方がおもしろいと感じている。そのことは絵を描き始めた頃から意識していたことだが、画面にそのことが表現できるようにいくらかなってきたのかも知れない。
絵を見る立場から考えてみると、絵を見てこの作家は何を表現しようとしたのかということを、想像しながら絵を見る。すると、その絵がどこに向かって試行錯誤されて、絵になったのかが、重要な要素になる。出来上がり以上に出来上がる過程が絵を見る上では重要になる。絵を見ると言うより、絵を読むという感じだ。
ダリなのどのシュールリアリズムの絵画が、そうした絵作りの過程を見せない写真のような描写になっているのは、試行錯誤を見せたくないからであろう。作者の感情や人間性のような物を画面から消さなければ、意図する仮想空間が提示できないと考えたからだろう。
商品絵画の多くが、名人芸を見せるようになるのも、作家の内的な人間表現では無いからである。巧みさやインテリアとしての完成度が際立つことが重要で、下手がやっと描いたというような物は商品には向かないだろう。美術品と考えればそういうことになる。日本画はその傾向が強い。
しかし試行錯誤の過程が残る下手な絵こそ、絵の内なのだ。商品絵画は藝術として考えれば絵の外なのだ。絵は鑑賞者にとって絵である以前に、制作者にとって芸術的行為として制作されるものでなければ成らない。芸術は爆発なのだ。
シュールリアリズムの絵画は絵の図像が問題なのだ。そこに未だかつてないような世界が展開されていて、その独特の世界が見るものに何かしら影響を与えられればと言うことだ。商品絵画もその描かれた図像が、インテリアとして収まることが目的と言うことになる。
芸術としての絵画は、表現された作品が作家の精神の発露であり、その精神が画面を通してみる物に影響を与えようという作品になる。その意味で制作の過程が一つの表現に成り得る。中川一政の絵画には試行錯誤の集積のような時代がある。その試行錯誤の人間離れした執念が、画面に残されていて絵の醍醐味になっている。
井上リラさんの若い頃の人体の絵が、まさにそういう絵で、最初に描いた形からはじまり、人体の見方が変化して行く、その完成までの行程が、美しいものとして残されていた。本人にそのことを話したことがあったが、本人はどうもそのことを意識していなかった。意識しないで藝術としての制作をしていたのだ。すごい人だと思った。
淀井彩子さんの庭のシリーズにもそうしたところがあった。絵が出来て行く過程のほうが見ていておもしろいことがある。出来上がった絵を見れば、別段特別なことはないが、どこから始めてどこで終わったのかと言うことが分かるという絵はおもしろいと思った。
その最もシンプルで決定的な絵が、マチスの作品「エスカルゴ」の絵だ。ロンドンのテートギャラリーで見た。その絵は塗られた色の紙が重ねて張り合わされて、巨大な絵になっている。重ねた紙だから、どんな順番に張られたかが想像できる。
誰もが再現できる絵だ。たまたま子供達がマチスを見ながら、同じように色紙を作り作品の制作をするワークショップをしていた。まさに芸術的感動の共有化である。1枚目を於いたときの美しさ。2枚目を重ねたときの美しさ。そして完成したときの絵。
芸術行為とは制作するという喜びに大半がある。このことを子供経ちに味わってもらおうというワークショップだった。若かった私はマチスから始められることを幸いだ思った。ところがマチスによって絵画芸術は終止符が打たれたのかも知れないと考えるように今はなった。
マチス以降の絵画は、道を見付けられないで二分した。資本主義に迎合した商品絵画の道と。藝術としての行為は制作する自らの問題だとした私絵画である。私絵画は制作するという行為を重視する。舞踏家が身体表現をする事に似ている。
私絵画は制作する行為が、制作者を深めて行く藝術としての探求だ。観客のいるパフォーマンスのような物ではなく、制作が作者の内的な深さに繋がり、内的な成長を促し、画面にはその結果が表現されるものだ。その経過の証のような物が、絵画と言うことになる。
マチスが、絵画を誰にでも可能なものにした制作の喜びを味わうことは、子供のワークショップでも可能なものである。子供の美的感性はこの行為を通して成長することだろう。その喜びが、制作するという喜びになり、芸術的行為の喜びを味わうことになる。
芸術作品の制作を通して、作者が深まって行く。高まって行く制作でなければならない。その作者の成長が画面に現わ
れてくるものであれば望ましい。それが日々の一枚であり、生涯通じての探求の道なのだと思う。制作という行為が生きると言うことに重なって行く。
れてくるものであれば望ましい。それが日々の一枚であり、生涯通じての探求の道なのだと思う。制作という行為が生きると言うことに重なって行く。
絵を描くことの喜びは、制作を通して制作の意味が日に日に増して行く。描かれる絵がより、人間本来に近づいて行くことが、絵の進む方向になる。絵を描くことは自分の絵がすこしづつ分かることで、よりおもしろく味わい深い物になる。
絵がどこまで進んでいるかは分からない。たぶんたいした物ではないのだろう。しかし、自分には絵を描くことが以前よりもおもしろくなっている。新しい発見の日々である。水彩画の技法の奥の深さを痛感している。できる限り自分のやり方に陥らず、あらゆる方法を試して進みたい。
記憶の絵画が続いている。今はそれがおもしろいのでやっている。それもまた何時変わって行ってもかまわないと思っている。絵がより深く自分に入り込めば良いと考えている。今は記憶に結びついたときに自分に近いと感じるようだ。