ウエッブでの作品発表について
ウエッブでは絵画作品のことなど分かるはずがないという意見を何人からか聞く。本当にそうであろうか。水彩人でウエッブ展覧会を開催したからそういう意見を聞くようになったとすれば、この機会によく話し合う必要がある。
果たして東京都美術館の開催を中止したままで、何もしない方が良かったというのだろうか。水彩人は設立趣意書にあるように、水彩画の研究のための会である。ならば、水彩人として、あらゆる研究の手段を模索すべきではないのか。
100年前、西洋絵画のことが日本で議論された時代、本物の作品など見ることもなく、わずかな、今から思えば劣悪な印刷物で作品を想像しては議論をしていた。100年前の日本人は、それほど貪欲に西洋絵画を研究していたのだ。
それではその時代の西洋美術に対する評論は的外れであったかと言えば、全くそんなことはない。むしろ現代のように美術評論が失われた時代よりもレベルの高い、見識のある評論が行われている。「美術批評家著作選集 全21巻」 ゆまに書房をみると、100年前の日本におけるヨーロッパ美術批評の盛んなことには驚くほどである。
実物を見たこともないまま評論を読み、芸術論が大いに展開されている。実際のセザンヌを見ることが出来ないという中で、想像の翼を広げ、大いに日本の美術の行く末を論じている。そうした中で明治日本の芸術としての絵画は生まれたのである。
ウエッブで見るものは本物ではないからと言う理由によって、簡単に切り捨てる保守性は、美術家にありがちな観念論ではないだろうか。確かにウエッブでは分からない部分はある。大きさの感覚とか、細かやかな質感は見えないかもしれない。しかし制作をしているものであるならば、その制作の本質の一端は映像にも現われていることに気づくのではないだろうか。
映像からすべてが分かるわけではないが、分かることも多いのである。むしろ映像だからこそ、本質が見えやすいと言うこともあるとさえ考えている。確かに、表面性の巧みさや細やかな質感のようなもので作品を支えている部分は失われる。映像にした場合、つまらなくなる作品もある。それはフィルターが取れて本質が露出したと言うことかもしれない。
具体的に言えば、セザンヌやマチスは映像でも大きくは変わらない。本物を見る前に想像していた作品とずれは小さかった。井伏鱒二の水彩画の作品を実際に見たことのある人は余りいないだろう。画集を持っているので時々見る。そして画集で充分に判断できるなと思っている。
それでも確かに本物とは違う。本物と違うのは当たり前だが、映像から想像できる範囲でも充分作品の方向性が見えると言うこともあるのだ。いやむしろ、映像であるからこそ、実際の作品の持つ物理的な意味を排除できると言うこともある。水彩画はそもそも大きな画面の素材ではない。水彩画ではこの点は重要な観点でないか。
もちろん作品は物理的な表現も大きな要素ではある。ところが幸いなことに、水彩画は絵画表現の中ではもっとも、物理的な「もの的な」表現が少ない表現法である。ゴッホの作品が盛り上げの、厚い油彩画の筆触が支えていることが、映像では確かにわかりにくい。わかりにくいが多くの日本人が写真でその素晴らしさを想像したのだ。
加えて透過性という意味では水彩表現はかなりの部分まで、映像で想像が出来る特徴があると思う。写真よりもウエッブでの掲載はこの点の良さがある。色が光と成って見えるために実際の作品に写真よりは近い場合もある。
残念なことは受信側が、スマホの小さな画面でしか見ないという場合、かなり大きさという点で劣ると言うことになる。せめてパソコンの画面を良く色調整した上で、見て貰いたいものである。
こうした機械的な要素は必ず、将来解消される。将来ウエッブで世界での作品の交流も起こるだろう。それは私絵画においては重要な表現方法になる。なかなか出会う事のない少数派の出会いの場になる。すでにウエッブで作品の販売が普通に行われている。表現の世界はこれから、大きく変わろうとしている。
ところが、スマホもパソコンもやらないという人もいる。こういう人は見たこともないにもかかわらず、ウエッブで自分の作品の本質など見える訳がないと決めつけている。せめて一度、見た上で判断はすべきだろう。
もう一つウエッブ展の良さは、作品が実に民主主義的に並べることが出来る。ダビンチの作品も、どこの誰の作品も横並びに出来る。その上で絵画を考えることが出来る。研究することが出来る。鑑賞できると言っているわけではないが、作品の意味を考える上では重要な研究の仕方だ。水彩人展は研究のための団体なのだ。
コロナで研究がストップすることがあっては、会の趣旨に反するだろう。ひとりで絵を描いているだけであれば、水彩人はいらない。集まることが出来ないのであれば、研究できる方法を探さなければならない。絵を語る会が集まって出来なくなったので、ひとり絵を語る会をやってみている。
このブログでも、水彩画 日曜展示を続けているのは、ひとりで孤立して閉じてしまうなかで、絵画を制作する危険を感じるからである。もちろん作品を展示したからと行って、ひとりで絵を描いていると言うことに何ら変わりは無い。絵を描くという事はそもそもそういう事だ。只管打画。
しかし、感想がわずかではあるが、送られてくることがある。制作を進める上で、参考になるし励みにも成る。是非とも感想をお願いしたいものである。そこから考えるという事が始まる。絵画制作は孤独である。しかし、生きると言うことはそもそも孤独なものであろう。
このブログの向こう側に作品を見てくれる人がいるという実感がある。時どこそうした反応もある。ただ石垣島にこもって絵を描いている危険を考えると、ウエッブ上であっても作品を公表することは必要だと考えている。
個展という作品の発表は止めた。個展を開く意味が自分には無くなったからである。個展において、作品の議論が出来なくなった。販売を意図している個展の会場で、さすがにこの絵は良くないとは言えない。絵を見て本音で話せない場では絵を見たくないし、見せたくもない。
絵の仲間が個展会場で、おめでとうございますというようになった。これでは私の考えている個展とはまるで違う。個展を開催して、何がおめでたいのであろうか。個展がおめでたいとなれば、開催している作家がおめでたいと言うことだろう。私には個展はやる意味が無くなった。
ウエッブ展はすべてではない。もっとやり方を研究すべきだとは思う。絵画販売のサイトでは、全体を載せたり、細部を載せたり、一枚の繪の様々な表情を掲載している。研究のためにはどういう表示が良いかはこれからの研究が必要であろう。