テレワーク時代が近づいた。
このような形で車を止めて描かせて貰っている。とても落ち着いて描ける。こんなすばらしい場所で毎日絵が描けるというあまりの幸せがどうしてきたのかと思う。石垣島の人の親切な気持ちのおかげだと思う。これで絵が進まないのではさすがにまずい。
世の中簡単には変わらないものだが、今回はさすがにテレワークだけは進むはずだ。コロナ事態でやむえず取り入れた会社の中にも、今後もテレワークを続けるところが出てくるはずだ。もしテレワークが取り入れられれば企業にとっても有利なことがあると気付かざるえないだろう。
中々踏み出せなかった理由は指揮系統だと思われる。ダメな上司はテレワークだとその無能ぶりがあからさまになるからではないか。テレワークは能力差が明確にされる働き方だ。働く人も何時から何時までと言うより、このくらいの仕事量という形になるのではないだろうか。そうなると能力次第である。ゆっくりの人もマイペースで仕事が出来ていいのではないだろうか。
テレワークは「地場・旬・自給」の考え方の推進になるだろう。家で仕事をしていて、気分転換に畑に出る。朝4時から働き始めて、夜8時まで仕事が出来る。合間合間に農作業を入れる。仕事もはかどるし、身体も健康になる。東京の会社に居たのでは空を見上げる事すらできない。絵を描いていても、息継ぎは必要なものだ。私は木の片付けをしながら、絵を描いているがすこぶる調子がいい。
会社には週一回ぐらい行けばいいという仕事がきっと出てくる。業種にもよるのだろうが、そういう態勢をとったところが生き残る会社ではないだろうか。次のウイルスの流行にも対応力がある。給与は少し安くても、そういう会社なら良い社員が集まるはずだ。テレワークは能力次第だから、テレワーク向きの人財という人が居るような気がする。
一人でやれる人だ。監視されなくても仕事が出来る人だ。仕事が少し奴隷労働ではなくなる。一人でやれる人であれば、仕事の効率が上がるはずだ。日本の労働の生産効率が悪いと言うが、テレワークを取り入れればこれも改善されると思われる。通勤手当も、オフィース面積も、有利になるはずだ。同じ家賃で良い場所に本社がおける。
しかし、多くの会社がテレワークに変更できないで脱落することだろう。しかし、この壁を乗り越えた会社が次の時代を担うことになる。それはテレワークの方が明らかにすぐれたシステムだからだ。本来ならばコロナがなくとも取り入れなければならなかったわけだが、変わると言うことは中々難しいのだろう。
テレワークを早く、うまく、安く、取り入れた会社が生き残る会社であろう。例えば弁当の宅配であっても、各地域にキッチンを設けて、ネットの予約があれば、一番近くのキッチンから宅配する。そのキッチンは社員の家でもある。こういうのはどうだろうか。
実は弁当屋のことなどで考えたのは、企業がテレワークするというようなことがよく分からないからだ。働いたことがないのでもう一つ分からない。丸の内に本社があるような会社の機能がテレワークで分散されていてどうやって運営されるのかはほとんど想像が出来ない。
出版社であれば、どのくらいが家での仕事が可能なのだろうか。なんとなく全部出来そうにも思えるが。大方針を決める編集会議などだけに集まって打ち合わせれば、後はすべて個別の仕事のようにも見える。今一番必要とされている本は何かなど、会社に居ようが居まいが同じであろう。
たぶんテレワーク可能な仕事と不可能な仕事があるのだろう。病院の診療がテレワークになったとしたら、実際の手術のような治療は無理だろうが、診断のかなりの所まではテレワークで可能なような気がする。患者のデーターの集め方さえ機能すれば、離島であってもそれなりの医療が遠隔操作で可能になるような気がする。
目の前に海が広がっている。海からの風がここちよい。テラスに出れば、明るい日の光がある。きっと良い仕事が出来るはずだ。発想が良くなるに違いない。通勤時間に費やしていた1時間を農作業に当てれば、食糧の自給は解決だ。日本の未来にも展望が出てくるのではないか。一時間で出来る農作業をテレワークで教えたいぐらいだ。
教育もテレワークに向いているのではないか。生徒が先生を選択する方がいいに決まっている。先生と生徒の相性というものがある。イヤな先生に教わらなければならないほどつらいことはない。週に1回ぐらい学校に行けばいい。あるいは一定期間だけ共同生活をしながらの教育。これなら、波照間島でも高校に行ける。通信教育の進んだ形が考えられる。その場所はアメリカでも、中国でも可能だ。こう言う大学こそ次の時代の高等教育のはずだ。
学費が高いと言うこともあるが、都会の生活費の方がさらに高い。例えば、イリオモテ山猫のフィールドワークを西表島でしながら、大学の授業を受けるというような生物学科はすばらしいではないか。酒蔵での醸造を体験しながら、大学の醸造学の講義を受けられる。
養鶏だってそうだろう。自然養鶏を私が指導しながら、専門の畜産を大学の授業として受ける。こう言う新しい時代に早く対応した大学が次の時代の大学になるのではないだろうか。それこそ仕事の現場体験が授業にある。
世界中の大学のネットワークを使えることになる。最先端の学問が講義として解放される。それを選択しながら、自分の方角を見つけることになる。それこそ通過試験は厳しくすればいい。能力が達しないものは繰返し学べばいい。一単位ごとに費用を払って受ければいい。単位がそろったところで卒業になる。生涯学習にも発展して行き、経営難の大学には新規顧客の開拓になりそうだ。
次の世界が本当の意味で地方の時代になる。地方の有利さがテレワークで出てくるはずである。美術大学はすべてテレワーク可能だ。沖縄の古典芸能の演者が芸大の古典芸能の講義を受けることが出来る。ピアノのレッスンが一流のピアニストから受けることが出来る。システムさえ完璧にすれば、かなりのレベルの指導テレワークで可能ではないか。ザバロの授業を日本で受けられたら、又私も違ったのかもしれない。
絵はどうだろうか。私の経験した大学の授業から考えれば、テレワークの方が良いくらいだ。ザバロの指導は週2回だった。同じ課題を家で設定して、それを描くところを映像で観て貰う。完成したところで又指導を受ける。他の生徒の描いた絵も見ることが可能になる。月に1度ぐらい実際の絵を見てもらえるのであれば、十分な気がする。ああそういうカルチャーがすでにあるか。
そして、合宿の授業がサマースクールのように行われれば、いいだろう。あれこれ考えていると希望が湧いてくる。あのときのコロナの感染で少しはいいことがあったという結果になって貰いたいものだ。