限界資本主義の未来をイメージしてみる。

   


上空からの夕暮れの石垣島

 米中経済戦争は限界資本主義の戦いに見える。強者の論理のアメリカと国家資本主義の中国の戦いになっている。両者の利害対立は妥協はあるとしても、根本的には相手を倒す以外に終わりはない。

 アメリカの自由競争は巨大な資本を持つものが有利な自由競争である。アメリカの望ましい世界の方向に,世界を誘導することでアメリカ経済は成長してきた。ところが、中国というアメリかを凌駕する可能性がある国が、国家資本主義と言う形で世界の方向を変えようと意図し始めた。資本主義が競争だけならば、覇権主義の出現は当然である。

 日本の大半の経済予測は中国経済は崩壊すると予測していた。今もあるのかもしれない。何故政治家や経済評論家が中国崩壊を予測したのかの理由は、自由競争の方が統制された経済よりも勝るという思い込みがあったからだと思われる。

 しかし、国家資本主義の方が競争有利の状況下では有利ではないかと思えた。中国へ自然養鶏のことで出かけたときに痛感した。ある農村をまとめて有機農業の共同経営の企業村にする。あるいはキノコ栽培の大工場にする。

 ひとつの方針へ誘導が公共主導で強引に遂行できる。日本では中国の環境対策がひどすぎるから、中国は住めないことになるだろうと言う意見も良くあった。しかし、国が環境対策に取り組むとなれば、一気にその方向に進む。循環エネルギーもプラステック対策もやる気になればやりやすい状況がある。

 ここをダムにすると決めれば、反対も何も出来ない強引さで遂行される。道路計画でも都市計画でも同じで、個人の利害は軽視され社会投資が進む。こうしたやり方が、成功しないというのが日本やアメリカの考える自由主義経済であった。

 ところが、個人の権利を制限する国家資本主義の方が、競争には有利になってきたというのが、現在の中国の姿である。その個人の権利を制限する表れが、香港問題であり、ウイグル問題なのだろう。

 軍事的覇権主義と言える側面も同じ事で、軍事力を強化し、常に近隣諸国に対して、圧力を加えることが出来る状態に立つことが、国家の圧力を自国民に対しても示すことになる。公共に逆らえない国作りになる。

 それは世界外交にも当然波及し、中国を無視することはどこの国も難しくなっている。その軍事的圧力は経済競争にも当然影響を与える。中国の途上国への影響は強いものがある。生活のインフラを、電気水道のようなものを中国が利権持つ国というものが登場している。

 国家資本主義と、自由競争原理の資本主義とどちらが勝利するかというのが、アメリカと中国の争いである。しかし、この競争の激化は今後も続くのであろうが、その影響は当然日本にも負の影響として現われてくるだろう。

 国家資本主義の登場は国と言うものの崩壊の前段階ではないだろうか。企業というものが、国というものを越える時代が来る。企業は企業の利益を優先し、国というワクを邪魔なものにする。それは中国と言うワクも結局の所、同じ運命を歩むのではなかろうか。

 今は世界の覇権をアメリカと中国が争っているが、世界の覇権を願うような国はなくなる。世界中の利益を独占しようという巨大企業は登場するだろうが、国家というワクを凌駕している。

 企業が企業の利益のために、武力を保持すると言うことも出てくるのだろう。企業は自分の都合の良い国に、都合の良い部分を置くだけで、国と言う限界を持つものではなくなる未来が予想される。

 アメリカはトランプが支持される背景にあるあがきは、衰退の前兆とみなければならない。利己的な国が世界を覇権を維持することはない。世界の駐留米軍は有料貸出軍事力である。儲からないとすれば引き上げる。投資額を返さないならば、帰らないという。

 この姿がアメリカの国家軍事産業なのだろう。軍事産業のテコ入れにわざわざ紛争を起こすとも見える。日本に武器を売りつけるのも、日中の対立に火を注ぐのも、アメリカ一国主義である。

 それでは中国が覇権を取って代わるかと言えばそういうこともない。中国の企業が中国の枠を超えない限り、世界企業になることは出来ない。そうした自己矛盾状態が中国企業には待っているはずだ。

 中国企業も世界を制覇するために、中国というワクを食い破るときが来るはずだ。企業は利潤のために国家利益というものすら、排除を始めるに違いない。これが国家資本主義の矛盾になるだろう。

 日本にも日本発の世界企業が登場して、世界制覇を目指しのし上がろうとするだろうが、そのときには当然日本というワクは捨てているだろう。そうでなければ、世界での競争には勝利できない。

 こうした限界資本主義では、優秀な能力以外を必要としなくなる。大半の企業が必要としないほとんどの人間はどうなるのかと言うことになる。一言で言えば奴隷的消費者になるのだろう。企業は利益を生み出す消費者というものも必要としている。消費者としての存在をなくすようなこともない。

 企業が国を超える時代が20年後か、30年後には来るとすれば、そのときには特別の能力のある人間以外は、企業では不要になる。そうした一部の超エリートとその他の人間に峻別される。

 普通の人間は消費者として存在は許されているはずだ。そうした普通の人間の生き方というものが産まれているはずだ。と言うか、普通の人間の生き方が探求されて行くのではないだろうか。

 国と言うものが、企業の力の下に弱い枠組みとして存在する状態になる。弱体化した国というものの中に存在する、国民という普通の人間がどのように生きるのか、あるいは生かされているのかになる。


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