ネット社会は民主主義をもたらすか。
インターネットは格安で情報を発信できる手段である。誰もが自分の考えを日本全体に向けて情報発信できる方法を得た。大きな報道機関と変わらないように、普通の個人がネットを使い情報を日本中に発信できるのがネット社会である。
誰もが情報発信できると言うことは、独裁政治が不可能になることでもある。だから独裁国家は自由なインターネット利用を許さない。インターネットの自由利用状態が、独裁のバロメーターになる。そう考えてブログを続けている。
私は監視対象になったことがある。そのことは親しくなった警察関係者が教えてくれたのだったが、それは監視していることを教えて行動に制限を加えようとしたのかもしれない。そのことを知ったことも、実名でインターネットを始めた理由のひとつである。
闇から闇に葬られないための自己防衛策である。日本の権力は私のような政府批判をする人間の行動はチェックしている。小物だからそれほどでもないが。電話の盗聴もしていた。インターネットは監視社会を作るが、監視社会を批判することも出来る。
肩書きや特別な資格もない普通の人間が、情報を発信できるようになるのがインターネットである。インターネットが誕生したときには民主主義成立の手段になると期待された。インターネットが普及して、その後の経過はどうなっているのだろうか。
誰もが自分の意見を発信することが、民主主義社会の基本だと考えて、紙媒体のピースカフェーを始めた。その発展したものとしてインターネットで連携したピースカフェブログは、紙媒体の限界を突破できそうに見えた。
ピースカフェーの一員としてブログを開始した。それまで、紙媒体でやっていたピースカフェーに比較して、発信力は広がった気がする。同時に紙媒体の時に比べて仲間の意思の疎通は失われた。一人で出来る良さでもあり、課題でもあるのだろう。
紙媒体のピースカフェーは500部くらいを毎月印刷して、置いてもらえるところなどに配らせて貰っていた。何年か続けてはいたのだが徐々に限界が見えた。インターネットのブログを書いて連携する方が伝達力が高まり、現状を打破できると言うことで始めた。
すこしづつブログというものを理解して、今日まで続けてきた。残念ながら日本の民主主義の方は後退している。石垣の自衛隊基地問題。辺野古の米軍基地問題。いずれも民主主義を後退させようという政治がある。インターネットによる情報発信が民主主義を支えているのかどうか考えてみたい。
むしろ、インターネットが人間の連帯を弱めている感がある。生身の人間の接触によって高まるものがある。あくまで協働の活動があった上でのインターネットなのだろう。言論の背景に行動がなければ意味をなさない。
田中辰夫氏の文章のシノドスに出ている「ネットは社会を分断しない」という文章が興味深かった。ネット社会が分断を生んでいるように見える側面もあるが、実際には自分と違う考えの人の意見を読むようになっているというのだ。それはネットが紙媒体と違い簡単で格安に情報に至れると言うことから来ている。
書籍や新聞であれば、自分と考えとは違うものはまず購入しない。しかしネットであれば、参考に読むことは良くある。産経新聞を買ったことはないが、ネットでは読ませて貰う。底には桜を見る会をいつまでも議論するな。等と書いている。
私のブログにも罵倒のようなコメントが来ることもままある。と言うことは軍国思想の人もケチを付けるために読んでいると言うことだ。平和思想もチェックはしているようだ。嫌がらせコメントなので公開はしないで、消去させて貰っている。
チェックをして嫌がらせをする仕事があると言う話もある。確かに読んだとは思えない、内容とは関係のない形通りの嫌がらせコメントである。私は自民党議員の文章なども探す。まともな人だっているかもしれないと探している。
河野太郎氏の文章はよく読んでいた。河野氏の文章は深い知識に裏付けられている。よく勉強されていると思えた。神奈川県の農業に関して書いたものにはコメントをしたこともある。農業分野に関しては浅い知識の通り一遍のもので残念だったからだ。
ところが、その後内閣に加わる頃から、内容が変質した。全くおかしな事を書くようになって失望をした。今もチェックはするが、どうしてしまったのかという状態である。これもアベ忖度なのかと思わざる得ない。大臣という立場は書く内容を自己制限するようだ。
私のような者は立場もほぼないし、名前を出したところで知っている人も少ない。それでも初めから名前も顔も出して書くことにした。写真や住所が分かるようにすると、何があるか分からないからよした方がいいという意見もあった。
しかし、人間が考えを表明するのだからどこの誰であるか分からなければ、読みようがないと言うことがある。どういう生き方をしている人間かが分からなければ、言葉が伝わらないと考えた。
長いことブログをやってきたが、名前を出したことでのトラブルは経験したことがない。そして平和主義の考えの人と緩やかな連携を感じるようになった。農業関係の人や、水彩画関係の人とも意見を交わすようになっている。名前を出して良かったと考えている。
私と関わって、下手なことをするとブログに書かれてしまうと言うことで、おかしな人が私に近づかなくなった気がする。と同時になんとなく非協力な態度をとる人がいる事も感ずる。
あしがら農の会や水彩人は組織である。その一員の私が、平和主義の文章を表明することが誤解を呼ぶので止めて欲しいと言うことを、仲間から言われたことはある。多分私のブログによって、会を離れた人もいるような気がしている。この点では残念なことだが、やむ得ないことと考えてきた。
軍国主義の人が自給農をやる事もあるだろう。自給農という点では同じなのだが、笹村の考え方はゆがんでいると思うことだろう。私としても、そういう右翼的な自給農の人と関わらなくて済むという利点がある。自然に身の回りが整理されたと言うことになっている気がする。
さらに言えば、農の会や水彩人全体が、私という色眼鏡で見られると言うこともあったのかもしれない。そう感じる不利益もないわけではなかった。地域で差別的な扱いが起きた原因のひとつかもしれないと思う。それは覚悟の上で政治的な発言もしてきた。
そうした不利益が有る一方、助けられたことの方が遙かに大きい。意見を表明していると言うことで、分かりやすいということがあるのだろう。この考えの人間なら、助けてあげようという人の方が多かった。
民主主義は人の意見を学ぶと言うことが基本だ。ネットで多く実践者の考え方を学んできたと思う。これからも学んで行きたい。インターネットがあるのに、トランプ大統領やアベ政権が支持者が多数存在する。多数決となると、利己主義者の方が多いと言うのが人間の本質かもしれない。
だからこそ、民主主義者は自分たちで緩やかな連携を作り出さなければならない。その手段として、インターネットを活用して行くと言うことだろう。ネットは民主主義を大切にするものにとって、ありがたい手段である。