表現の自由展 再開される

   

東京都美術館、ここでも政治的表現の展示拒否はある。

  あいちトリエンナーレ展示禁止は全く他人ごとではない。水彩人も同じ立場に置かれる可能性がある。もし私が展示禁止になるかもしれない作品を制作して発表したいと考えた場合。水彩人がその後差別を受けることを考えると、ついためらう事になるだろう。自分だけの問題なら、戦う。しかし、仲間のことを思うと、ついためらう事になるだろう。これが政府の狙いなのだ。

 愛知県で開催中の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」で、中止となっていた企画展「表現の不自由展・その後」について、芸術祭実行委会長の大村秀章・愛知県知事は8日午後から企画展を再開する方針を発表した。そして再開され、長蛇の列となった。

 一方、河村名古屋市長は、7日、18日に支払期限の迫った開催費用の市負担金約3300万円の支払いを保留する考えを記者団に明らかにした。理由は不自由展を再開することについて「暴力」と批判。「天皇陛下の写真を燃やして足で踏んづけることを市民、県民、国民が認めたことになる」などと主張した。

 愛知県や市などでつくる実行委員会が芸術祭を主催することから展示内容を県民や国民が認めることになるとして「表現の自由に名を借りて、世論を暴力的にハイジャックするのはやめてくれ」などと訴え、「陛下への侮辱を許すのか!」と書かれたプラカードを手に約5分間座り込みをした。

 美術館での展示の意味を理解していない。美術館で展示すれば、認めたことになると考えるとは、いったいどういう考えなのか意味不明。たぶん、この抗議活動が、政府にへの忖度であり、選挙に有利に働くと考えているのだろう。

 こういう人たちの考える表現の自由は自分と同じ思想に対してだけだ。憲法を変えることになれば、日本はとんでもない国なってしまう。

 表現の自由展は再開されたが、政府の補助金停止は世界に日本の文化行政の水準の低さをさらけ出した。アベ政権が目指す日本がどんな国か姿を現し始めた。実に了見の狭い考え方である。

 救いもある。大村愛知県知事の決然とした姿勢である。アベ政権に逆らえる見識は当然とはいえ、立派なことだと思う。大村知事は別段、天皇批判を受け入れているわけではない。美術館というものの意味を理解しているに過ぎない。

 名古屋市長のあのいきり立ったまるでネトウヨの様な形相と態度と大違いだ。日本の保守政治家の多くが、韓国に対する対抗心を盛り上げようと必要以上に、従軍慰安婦や、徴用工問題を問題視する。そこに、慰安婦少女像が展示されたというので、利用しようと大騒ぎしただけのことだ。

 美術館における展示と、日本大使館前の展示の違いが分からないで発言しているとしか思えない。この従軍慰安婦少女像が、表現の自由展に展示された意味がある。何故、この像がが展示禁止になったのかを、現代アートの観点から問い直す企画である。政治的意図などないのだ。従軍慰安婦の歴史的認識問題ではないのだ。まして、韓国との政治的軋轢でもない。

 日本では政治的表現への弾圧が始まっている。この意味は問い直さなければならない。東京都美術館でも展示禁止された、反政権的表現があった。法律違反と言えるような表現行為であれば、禁止されなければならないが、政治的表現は全く自由なはずである。思想信条の自由は憲法で保障されたものだ。それは公的美術館であれば、なおさらのことだ。

 それが、最近の日本では、反権力的表現という作品が展示禁止される。どんなものが、禁止されてきたかを問う事で、日本のアートの社会に置かれている状況を問おうとしている展覧会である。そのいみでは、まさに展示禁止を多くの明治回帰の政治家が声高に叫んだことで、この展示をした意味が明確になったともいえる。

 その代表例が、維新の会である。維新の会としては、アベ政権の補完勢力として生き残ろうとしているのだろう。アベ政権が言いにくいことを、あえて主張して存在感を増そうというのだ。その意味では、大阪湾への汚染水の排出も同じ感覚である。どこか、騒いでなんぼのN国と似ている。

 大村愛知県知事は予算案の交付拒否を、裁判で争うと言っている。ここで日本の司法も問われることになるだろう。韓国の司法が徴用工補償をしたことを、日本政府は批判していたが、日本も似たようなものではなかろうか。

 戦前の軍国主義に進んだ姿が想像される。軍国主義は権力が作るのではなく、国民が作る。ナチスは選挙によって生まれたという、麻生副総理の説明通りである。いま日本は選挙によって、明治帝国主義の再生がされようとしている。

 明治帝国日本は清算されなければならない亡霊である。必ず戦争への道をたどることになる。なぜ、日本人がそうした一度失敗した道に迷い込むのか。十分に考えてみなければならない。

 競争心に原因がある。明治日本人の誇りであった、東洋人としては優れているという自負が危うくなり始めている。西欧に対するコンプレックスの裏返し。脱亜入欧思想の終焉。中国や韓国の台頭。アジアの中で遅れ始めている意識。原発にぶら下がる、劣化し始めている社会の危機意識。

 自分が自分でいることで誇りを持てない人間になり始めている。見せかけであっても大きく見せなければ、安心できない日本人の弱さ。弱いものを見つけて、自分の強さを確認したいという、低い自我意識。自分がそうではないとは言わない。自分の中のそうした弱さを克服するのが、大変だったからそう思うのだ。

 やりたいことがあり、その実現に向って精一杯生きることが出来る。それだけでいいはずである。人間は精一杯自分というものを生き抜けばそれ以上のものは不要である。やりたいことを、自由にやれない社会が問題なだけだ。

 そのためには一人一人が自分のやりたいことを見つけられる社会を作らなければならない。自分が生きるという事はお国の為でも、家族の為でもない。自分の確立できない人間が、お国の為、家族の為という価値観に逃げ込む。

 自分一人が生きることは、自給自足すれば可能である。一人100坪の土地で、毎日1時間働けば、人間は食糧の確保が出来る。先ずその原点に立てば、怖れることはなくなる。怖れることが無くなれば、人を押しのけて競争しようなどと考えることはなくなる。

 一人ひとりが自立すれば、明治帝国に戻ろうなどという政党に投票するはずがない。競争して勝ち抜けると考える人は、競争に有利そうな政党に投票するのだろう。これが、アベ政権の口だけ政策になる。日本はアベノミクスで経済好調で、原発は完全にコントロールされている。と今でも言っている。

 

 

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