水彩画の技法

   

崎枝集落の牧場 10頭牛がいる。3頭が子牛。サトウキビの刈り取るとき捨ててしまう葉を与えている。よく食べている。完全な放牧牛である。この場所に通って絵を描いている。下には田んぼが広がっている。そしてすぐ右が海である。

それぞれの人に、それぞれの絵技法がある。技法とはその人の絵に必要な技術なのだろう。目的もなく技法だけが独り歩きすることはない。絵を始めようという人が、「まずデッサンから学ぶのですか。」というようなことをいう人が多い。それは最悪は絵の学び方である。もしそのやり方がいいとする人であるならば、それは小学生ぐらいの時にやらなければ手遅れだろう。もうデッサンから始めたときに、絵というものを考える以前から絵の方角が決まったようなものだ。デッサンからという意味は、見ているものを正確にとらえる技術を磨くというような意味だ。実はそれも目の能力であって、正確に写し取る技術はいわゆるデッサンをしなくとも、持っている人は持っている。絵を描きたいなら、描き始めればいいけのことだ。デッサンはデッサンとして面白い。フランスにいたころはどれほどデッサンをしたかと思うほど毎日描いた。お金がなかったので紙代が困るほど描いた。それはデッサンという絵を描いて居たのであり、別段絵を描くための基礎を固めるの為に描いて居たのではない。そのデッサンが今の絵を描くのに役立っているなどということは全くない。邪魔をしている可能性もかなりあると思っている。

絵を描くことが面白いのであれば、絵は描きだせばいいだけのことだ。描かれた絵のことはどうでもいい。描いた絵が思うものとは必ず違うであろう。思うものに近づけてゆくように繰り返して描くだけのことだろう。繰り返すうちに思うものがなかなか明確にならないことに気づく。例えば床の間に飾る絵をきたいとか、玄関に置く絵を描こうということであれば、少し何が描きたいのかわかりやすい。松に鶴なのか、バラにリンゴなのか。おおよそ日本の絵画というものはそうして出来ている。それは装飾画というもので、生きてゆくための絵画とは別のことである。装飾画が悪いという意味ではない。装飾画を描こうということならば、装飾画を描けばいいことだ。ただそれを自分が生きるための絵画と考えない方が良い。それぞれの目的があるということをはっきりさせる時期が必ず来る。その自分の目標をごまかさないことだ。これは他人のことではなく、自戒の意味で何度でも書くことだ。それくらいいつの間にか目的に外れて絵を描いて居るものだ。何をするにもどこに行くのかぐらいは自覚するのは当たり前のことだ。散歩をしているが、まだ徘徊というほどでもないので、あっちの方ぐらいは決めて歩き出す。

方角が決まればおのずと学ぶべき技法が分かってくる。私にはどこにでも行ける技法である。自由に後戻りできる技法が必要だ。取り返しがつく技法の確立。そうすれば、自由になれるからだ。自分の見ているものは変幻自在に変化している。この変化についてゆけるようでなければならない。あることろまで描き進めると新たに見えてくることがある。その見えているものにすぐに対応できる技術である。その見えているということは実は前に見えていたものの結果でもある。だから、間違っていたというか、今はそうではないと思う過去の痕跡も残されていないと、新たな見えてきた意味が見えない。そしてたいていは見失う。苦しんでいるうちに何かしらこうかもしれないという感じに近づく。だからすべての軌跡はいらないわけでもない。そういう技法でありたいと考えている。水彩画はそれが可能な表現だと考えている。相当に難しい手法になる。しかし、そいう過程や失敗の痕跡が絵画として残されてゆく表現。その人のままであるという意味で水彩技法は私には可能性がある。

技法は無限に存在する。デッサンからなどということは全くない。技法からということもない。絵を描いているうちに何かしら技法は形成される。そしてそれが次の領域に進む邪魔をする。私は死ぬまで自分の限界を切り開きたいと思っている。小学校の時の美術の先生は根津壮一先生だった。光風会日展の人だ。その人は最初の授業で、水彩画を説明した。紙に筆で水を付けて紙をよれよれにした。もう紙は立つことはないといってよれよれになった紙を画板に止めた。今度は絵具をびしょ濡れの上に描いて、滲んで溶け込んでしまう姿を見せた。水彩画というのはこういうものだというのだ。全く小学5年生の私には驚くべきものだった。紙と絵の具を平気で無駄にする人だと思った。水彩画の手におえない姿を見せてくれた。意味も分からずに、素晴らしい新しい世界に行くのだという感動をしてしまった。それまで考えていた絵という概念を破壊した。そういえばのちにこの根津先生と、渋谷人体洋画研究所で並んで描いたことが何度かある。先生はいいデッサンをされていた。帰り道喫茶店に一緒に入ってコーヒーを飲んだ。先生の手は筆ダコでごつごつだった。この人もただただ描いて居る人だと思った。

 

 

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