2018年から2019年へ

   

2018年が終わろうとしている。来年はいよいよ70歳になる。石垣島生活を始めることができてよかった。つくづくよかった。30代後半で山北で開墾生活を始めた時は、東京の暮らしに追い込まれた結果であった。小田原に引っ越したのが50歳前半で、様々な事情が重なりそうした方がいいと判断した。石垣に越したのは心機一転して、自分の生きる目的ともいえる絵の道を模索したいからである。絵を描くということはほかに何かやることがあってはうまくない。それを片付けてからという事になると、純粋な気持ちが動かない。何もやるべきことがない状態にいることは大切なことだ。無為な状態で絵を描きたくなる気持ちを待つ。そのように考えて石垣に越した。何歳まで絵が描けるのかはわからないが、一応100歳までの30年と決めている。30年あれば、根本からやり直せる。絵を描く自分の、人間として行きつけるところまで行く。今描いているような絵でない絵があるはずだ。まだ嘘なのだという意識から抜け出ることがない。

2019年は石垣生活が始まる。石垣では冬至の日を新たな始まりの日とする風習がある。昨日である。アラテーダとか聞こえたが、もう一つ判読できなかった。要するに一陽来復ということだろう。冬至の日の初日の出を拝むのだそうだ。太陽がよみがえるということだ。と言っても夏日が続く石垣では、冬至の太陽は真夏のような強さである。机を外で作ったのだが、たちまちに日に焼けた。太陽が弱まる感じは少しもない。こうして間違いなく、石垣での再生生活は始まった。やれるところまでやる決意である。今日から絵を描きに出かける。どういう絵を描くのか自分自身が楽しみである。前回は見えるまま描いた。そして絵になり始めたというところで筆を止めた。この絵になり始めた感を確認したかった。その絵は小田原の部屋にかけてあり毎日見ていた。意味は分かったわけではないが、それもまた良いということだった。

水彩人に関しては、今まで通りだ。今まで以上に水彩人を自分の確認の場にしたい。絵を描くということは危ういことだ。独りよがりになる。私絵画の一番危険なところが、自分が見えなくなるということだ。私絵画の行く先は誰にも分らない。それだけに、客観的判断がないという世界である。自分がいいのだからいいだろうと居直ることもできる。自分が見えるということは自分を客観視できるということ。それは他人の目で自分を見ることができるかである。そのためには水彩人はとても大切な場だ。絵を語る会も継続したいと思っている。本音で絵を語る場は必要だ。自分の行為を言葉化する意味はますます重要になる。先日、絵について言われた私の絵は教条的である。ということがどういうことか今も考えている。思い当たるところもあるからだ。考えて何かがわかることは少ないのだが、心に残るということは意味がある。

小田原生活は、田んぼを続けるつもりである。体の動く間は田んぼをやりたい。それを自分の指標にしたい。もう田んぼは続けられないなというときが、次の転換期なのだろう。自分では気づきにくいことなので、仲間に教えてもらおう。遠距離恋愛ということで、田んぼに行かせてもらいたい。田植え前後の1か月。稲刈り前後の1か月は小田原暮らしである。あと草取りに少し行けば、何とかなるはずだ。三線も楽しみである。でん田楽団も続けたい。石垣でもう少し練習をして、音楽仲間の足を引っ張らないところまで向上したい。石垣で良い三線の先生を見つないといけないだろう。元旦にはクルーズがあるようだ。日の出を見るクルーズのようだから一度乗ってみようと思う。

 

 

 

 

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