文体と筆触
名蔵湾の絵の部分 ---筆触について
最近、「八重山日より」を読んだ。宮城信博さんという方の書いたものだ。いわゆる散文というのか、随筆というのか、もう一つ違うような気もした。たった一行だけの、何と呼べばよいかわからないが、詩とは違うと思う文章もあった。雑誌の囲み記事のような文章である。はじめて石垣の人のことが少しわかった。けっこう芯が強い。石垣の人間模様が書かれているから石垣が分かったというのではない。この文章に現れる石垣の人の持つ空気感のようなものを感じた。それは内容というより石垣人の書く、独特の文体というものを感じたからなのだ。何気ない文章のわりに自己主張が強い粘りのある文体。内容が負けず嫌いというのではない。文章の言い回しの仕方や、言葉遣いにそんな感じがしたのだ。石垣に生まれた人が、沖縄本島に暮らしているのだなあ。どうも八重山料理の店をやっているらしい。それなら納得がゆくと思える何かがある。文章のあちこちにふるさと自慢がある。がそれが気になる訳ではない。
むしろ、何かいいがたいものがあるような、書き残しているような、あるいは言いよどんでいるような、書ききれない何ものかが、文体から匂う。極めて聡明で論理的な文章である。にもかわわらず肝心なことには触れようとしない。肝心なものがないのであればいいのだが、肝心なことがかなり重く横たわっている気がしてならない。そんな文体なのだ。その有様を分かりやすく書けないで残念だが、そうとしか言いようもない。本当は文体ではないのかもしれない。さっぱり見せようという、技巧的な文章ではあるのだろう。そこに理由の分からない晦渋が残る。何気なさげのでは済まない心の淀みが聞こえてくる。そんなこと一番遠くのことだと示そうとはしている。ここが人間のどうしようもないところだ。このどうしようもない、いわば馬脚のようなものが文体にあらわれてくる。文体の余韻。切り上げ方にある。多分そういう事は私の勝手読みなのだろう。人間というものは結局たくまずして文体に表れる。
究極の教師というものは存在したことすら思い出しもしない人だそうだ。素晴らしい教師は自分の存在を消してしまう。あの先生は良かったなどといわれるうちはまだまだなのだという。まだ恩着せがましい教師かもしれない。あの人のお陰という形で、生徒と接するという事は、先生としてはまだまだというのだ。少しも役立たなかったと生徒当人は思っているのだが、実はその先生のお陰であるというようものが教育であると。本来の教師というものは、その生き方で人の道を示しているだけである。方法論を示すのではなく。先の方の方角を生きているのが教師である。道元禅師は自分がそう生きただけであって、後に続くものにこうした方がいいなどとわざとらしく示すことはない。後に続くものがその生きた道をたどり、こういうことが道らしいと学なぶだけだ。教師は消えなければならない。そういえば先生の生き方は素晴らしかったかもしれない。そんな私の先生を何人か思い出すことができる。その人は自分を教育者とは考えもしなかっただろう。
生きるという事はくだらなくて沢山だ。ダメでもいいじゃん。その人であればあとはどうでもいい。他人から見た価値などどうでもいい。人の素晴らしさと較べる必要などあるはずもない。文章では書いている内容とは別に文体である。それは絵で言う筆触のことなのだと思う。絵には、色とか、形とか、ある訳だが、一番意味のない筆触が一番重要だと考えている。主題から見れば、どうでもいいような文体とか、筆触といか言う事にむしろ、重要なことがある。上手な筆触というものは、その描く人間に近づくことを出来なくする。下手な筆触はわざとらしくて鼻に着く。筆触はただ在るものだ。筆触は筆跡と似ている。筆跡鑑定という事があるように、そこから読み解けるものが沢山ある。書道というのはほとんど筆触のことともいえる。水彩画では筆跡ほど絵を左右しているものはない。良い筆触になるためには、自分を磨く以外にないという事は、文体と同じなのではなかろうか。