見るということと空になること
私は写生で絵を描く。写生をするということは、良く見るという事そのものである。見るという事も様々あるが、それを別にすれば考えないで描くという事でもある。見るという事の第一の機能は、目の前にあるものを認識するという事である。絵を描くうえでの認識は考える認識ではなく、感じ取るという認識の仕方である。バラをバラであると認識するのは日常の確認である。その認識の在り方の幅はかなり大きいものである。梅原龍三郎の薔薇といわれる。薔薇をどのように見て認識するかは人それぞれのものになる。絵に描かれたバラの見方によって、人生を変えるほどの衝撃のある認識が示されることもある。生のバラの花がどれほど美しいとしてもその様な主張はしていない。バラのビロードのような赤い色が美しいとか、その花びらの感触まで表わされているとか。そんな認識であれば、絵を描く意味はない。実際のバラの花の方が美しいだろうという程度のことになる。あるいは写真のように巧みに描けるという技術が評価されるという、芸術とは無縁の職人的問題である。
薔薇の絵が素晴らしいものであるというのは、もう薔薇の花を超えて、描いている人間の素晴らしさが画面に表れた時なのであろう。薔薇の花を描いたものではあるが、描く人間を絞り出しているという事が芸術的表現になる。
絵画の画面においてはバラであろうが、雲であろうが、すべては画面を構成するムーブマンの材料といってもよい。と中川一政美術館の案内に中川一政の言葉として書いてあった。バラはその位置での色と線の意味に還元され、画面という空間を構成される材料となるに過ぎない。その材料で画面という空間の世界が、作者の人間の世界を表している。セザンヌのリンゴを見てこんな腐ったようなリンゴは食べたくないという感想を書いた人がいる。絵に描いた花を見て、何の花かわからないから駄目だと言った人がいる。絵というものの意味を間違って考えている。食べ物としてのリンゴの価値を引き写すような意味は絵画とは関係がないことだ。種類が分かる花の絵であるなら、ボタニカルアートが最善であろう。ここのあたりを誤解して絵というものを見ても絵の真髄から離れてしまう。絵というものは作者の人間と対峙するものだ。作者と画面の対決の姿を見せてもらうようなものなのだ。そして、リンゴを見るということは、リンゴをとことん見るということからしか生まれない。セザンヌのリンゴに驚かされるのは、リンゴという存在の不思議とその存在の位置を見抜いてやろうというセザンヌの意思との関係の葛藤まで、画面から感じられるからだ。
この根底まで見るという行為の先に絵はある。にもかかわらず、ここで言う見るという行為はあくまで呆然として見ているものだ。自己存在に至る道は無念無想にある。絵を描く見るは全く呆然とした脳だ。何も考えていない。反応だけになっている。解釈をしようとして見る。構図を工夫する。絵画性とか、完成度とか、一切絵を描くという行為にはそいうものが紛れ込んではダメだ。そんなことをすれば、新しい地平に至ることはない。新しい発見が出来ない。過去の蓄積を表すことは職人的仕事であり、芸術の仕事ではない。自分を反応だけの存在にするという事で、新しい地平の発見に至るという事だ。良い絵を描こうということなど全く関係がない。ただ、見えているここにある何かを画面に表すことはできないかという機械になる。だから描かれたものには手順もなければ、結論もない。ただ呆然と見るだけになり、新しい世界に入ることだ。無念無想の空の世界にいて、目に映るものを受け入れている。
だからこそ、絵を言葉化することが必要になる。絵を描くときには言葉はいらない。一切無になるとは、理屈を捨てるという事だ。だからこそ、出来た絵の不思議を言葉化してみることだ。自分が描いた絵を言葉化することがここに必要になる。言葉化しないで感覚だけでやるのは子供の絵だ。言葉化することで初めてその次に行くことができる。言葉化するからといっても何か意味するわけではないが、自分の絵を言葉化できないという事は、そこで止まるだけである。感覚の良いという人は生まれもよいのであろう。育ちも良かったのであろう。意識化しないでも感性が豊かに育ち、そこまでの絵を感性だけで描くことができる。しかし、それを絵画にするためにはその感覚の絵の意味を言葉化する必要がある。それが唯一自分の絵を自分の存在と関連させて意味を深めてゆくことになる。この文章も私の絵の言葉化である。こうして自分の絵の描き方を文章化してみることで、確認できることがある。そして次に描くときの方角が見えてくる。何のために描いているのかという事が見えてくる。