お寺のクリスマス
お寺育ちだから、子供の頃からクリスマスはやらないできた。暮れの忙しい時期という事もあるし、東京の家の方には暮れから正月にいたという事は一度もなかった。山寺の暮れの仕事は薪づくりである。お寺の一年分の薪を作るのだから、大変な作業だった。山村の部落ではどの家も薪づくりに相当の労力が費やされた。正月前に何とか薪づくりを終わらせるのが、毎年の行事のようなものだ。だから、12月は毎日朝から真っ暗になるまで山仕事である。雪が降ろうがどれほど寒かろうが、子供も総出で山で木を伐り、引きずり降ろし、薪割りである。これはどの家でもそうだったはずだ。燃料を自給するということが、かなり大変なことだった。その仕事半ばにクリスマスというものが一応やってくる。まだ耳慣れないことではあったが、村でもクリスマスという新しい風習を取り入れる家が現れてきた。サンタクロースから子供が何かもらえるというのだ。正月になれば貰えるというので、もういくつ寝るとと歌うほどに楽しみだったのだ。それが早々暮れの内に、「小学4年生」がもらえたという話を聞いて驚いたものだ。
昭和30年代の藤垈の部落ではまだクリスマスは遠くの話だった。その代わりというか4月8日には甘茶でお釈迦様の降誕会を行った。花まつりである。お寺ではお釈迦様の像を中心にした小さなお堂をつくる。おみこしくらいの大きさである。小さな像を囲むように花を一杯に飾る。花まつりの特徴的なことは象の張り子を作る点にあった。そしてそれをお寺の庭をぐるりと歩く。花まつりの歌を唄う。村の子供たちは瓶をもって甘茶を貰いに来る。その場で飲むだけでなく、一升瓶などにひしゃくで汲んで帰った。甘茶というから甘いかと思えば、かすかに甘さが感じられる程度のものだった。子供たちは毎年同じことなのに飲んではがっかりしたものだ。でも、併せて「おぶっく」を貰えるから楽しみはあるのだ。ささやかな花まつりだが、あの時の明るさは鮮明に記憶に甦る。だから、クリスマスの思い出の代わりに、桜の花びらの舞う花まつりが、お釈迦様でも知らぬ仏の誕生会だった。
クリスマスは何故やらないの。おじいさんに聞いたことある。おじいさんはお寺ではクリスマスはやらないと言って、それ以上の説明はしなかった。お釈迦様の花まつりも、キリストのクリスマスも子供には意味が分からなかった。その他大抵のことを大人は子供に説明をするという事はまずなかった。あれは我が家だけのことか、世間一般にそういうものだったのか。大人というものは苦虫をかみつぶしたような、怖い存在として権威を保つものだった。今は子供も人間として同等という事らしい。クリスマスと花まつりが入れ替わったように、子供の立場もずいぶんと変わった。最近はカボチャの仮面やら、チョコレートのプレゼントやら、記念日が商魂によって、新たにあれこれ生まれている。そのすべて子供文化である。丑の日にはウナギを食べるいうような、大人相手では今の時代商売にならない。大人は我慢しても子供の為ならというのは当然のことである。
やはりクリスマスというと、フランスにいた頃に出かけた教会のクリスマスが思い出される。ナンシーでも、パリでもさすがに教会に出かけてみた。大聖堂の一角にキリスト生誕の馬小屋が再現されていた。ろうそくで明るくなったあたりが、何とも言えない明るさだった。周りを取り囲むローソクは一本いくらで購入できて、自分でお供えをすることができた。私も何本か火を灯して、聖母子を照らした。星の光を見つけ、あそこにキリストが生まれると探し当てる聖人3人。馬小屋に至るまでの、キリスト生誕の物語が各場面として作られ、飾られていた。揺れるロウソクの光りと相まって、今でも忘れられない一場面だ。。人が溢れる聖堂の奥からは神父のフランス語のミサが流れてきた。フランス語ではどうもありがたくないなあ―。などとくだらない感想を持ったものだ。今もフランスのクリスマスは少しも変わっていないことだろう。日本の花まつりの方は、ほぼ消滅したようだ。日本人というものの陽炎の様な姿が消え去るようで心配になる。