水彩画の描き方。
名蔵湾夜明け 7時
芸術としての絵画はこの時代に存在しているのだろうか。独立の奥谷博氏が文化勲章を受章した。国が絵画として認めたという事になるような気もするが。私にはその絵が残念ながら絵画とは見えない。文化庁職員が「国批判番組に賞、いかがなものか」 芸術祭賞審査でこうした発言をしたのだそうだ。そして林文部大臣が謝罪をした。謝罪も良いが、むしろ今の日本国が評価する芸術というものがあり得るのだろうかと思う。日本の文化とは何かを考える必要がある。アニメが日本文化だというのが最近に方向なのだろう。経済的比重。発信力と経済性。別に奥谷氏の絵を悪いという話ではない。ヒットラーは画家であり、国家と芸術に関しては明確な方向性を持っていた。芸術が国家に奉仕する。それが問題だったわけだ。その危険を前にして、文化というものとその評価の基準が一向に見えない。文化に勲章を与えるという事がそもそも、危ういことになる。国の意向を忖度した審査委員が存在するのだろう。国を批判するような絵画が存在するとしても、文化勲章を受章することはあり得ない。何も文化庁の役人が心配するまでもない。選考委員を文化庁で決めるときに、忖度してくれる審査委員を考えているはずだ。
芸術としての絵画とは何か。表現であることが条件である。表現でない作品というものはあり得ないだろうが。表現が社会に対して、人間に対して、良い影響を与えうる表現であるかどうか。という事が芸術作品としての基準なのだと考えてもいいのではないだろうか。その意味で絵画そのものが社会に対して影響を与える力は弱まってきている。それは表現の手法が多様化したことに由来する。写真が生まれ、映画が誕生し。視覚芸術もその手法が激変している。その中であえて、人間誕生以来の描くという素朴な手法を用いて、行う芸術の意味である。素朴であるからこそ人間に影響を与えうるという事がある。絵画芸術というものはそのことを見つめる以外に方角は存在しえないのではなかろうか。言葉というものが人間の暮らしに不可欠な道具である。その言葉という原初的なものであるからこそ、詩という芸術が存在する。描くという行為が素朴であるからこそ、そこに芸術としての意味が存在しうるはずだ。ここに立ち返る以外にない。
芸術としての絵画は、論理上はない訳ではない。しかし、実に存在しがたい状況が広がっている。芸術の意味がよく分からなくなると、リアルな表現に寄り掛かることになる。人の及ばないような技術で存在を示そうとする。上手だという事で人を感心させようとする。リアル絵画の流行こそ絵画文化の衰退を意味している。良い鑑賞者の不在。上手いは絵の外と言ったのは、文化勲章を差し上げたいと言われて断った、熊谷守一氏。中川氏や熊谷氏のような、自分の世界を突き詰めるとともに、絵画という芸術から逃れないすごさには、打たれるものがある。つぎの時代に、絵画存在にぶつかってゆくようなことは出来るかと思う。もし100年後に芸術としての絵画がなくなっているとすれば、それは今の時代に絵を描いている人間として恥ずかしいことだ。あえて人の心に結びつく表現というものに至らなくてはならない。それは私絵画の奥底にある、人間共通のものに至れるかという事なのだろう。
絵画は個と個の問題になる。先日中川一政氏の絵画を見せて頂き、確かに私にとって絵画が存在しているという事が分かった。中川一政氏の絵が私の生き方に影響しているという事がある。真剣に生きてみようという気持ちになる。やり尽くしてみたいという気持ちになる。人間が作ったものが、人間に影響を与える。これがやはり芸術の意味なのだろう。文化勲章を受けるような絵画というものはそういう絵画を意味するのだろうが、果たしてこの先そういう絵画はあり得るのだろうか。絵を描く以上、私絵画というものが、絵画という枠を逃れるものになってはならない。絵画という枠の中で挑戦するという事は、極めて困難であり、自己否定の苦しい道である。私絵画が、自己撞着のものになるのであれば、存在する意味がない。自分というものを突き詰め、その奥にあるかもしれない人間に共通するような、共感世界を探らなければ意味がない。この危うい境目を日々確認しながら描かなければならない。