絶対正義は疑う
小泉劇場と呼ばれた郵政民営化は、絶対正義のように国民の前に提示された。国民はいつの間にか巻き込まれて、郵政民営化の結果起こることよりも、民営化即正義と考えてしまった。郵政民営化に反対する人たちは守旧派として問答無用に排除された。そして郵政選挙が行われ小泉自民が大勝し、小泉チルドレンと呼ばれる訳の分からない国会議員が乱造された。あの時は野田聖子議員は自民の公認から外され、刺客を送られたのだ。こうしたやり方の反動で自民党はその後おかしくなり自滅した。では現時点で、郵政民営化は絶対正義だったのかと検証してみれば、そうでもない。郵便事業は新たな曲がり角にある。インターネット時代の中で郵便事業はどうあれば、国民にとって良いのかである。すべてのことは良いと悪いが混然としている。人間の世の中に絶対正義のことなど一つもない。私は田んぼを正義のように掲げるが、田んぼも良い側面と悪い側面が当然ある。絶対正義を掲げて、強弁する人はまず疑う必要がある。今でいえば、「岩盤規制の打破」が正義として言われている。アベ政権の売りが岩盤規制をドリルで穴を開けるである。岩盤規制と呼んでしまえば大抵のことが悪に見える。例えば農協問題。農業者の組合という原点が論議されることなく、解体されつつある。
そして、加計学園問題である。獣医学部の新設でが岩盤規制とされている。獣医学部は文部省の許認可権によって新設が認められないできた。それが岩盤規制の象徴とされたのである。そして細かな検討議論を抜きで、加計学園の獣医学部新設が、ドリルの一点突破になり、後に続けという事である。文部省が認可しないというのもどうかと思う。やりたいならやればいい。但し、加計学園に補助金を出す必要はない。文部省が獣医学部に対して出している補助金を加計学園には減らしたらいい。どうしてもやりたい。補助金がなければ不可能というなら地元自治体がその分を負担したらいい。地方創生の事業でもある。獣医師が必要か必要でないかの議論も十分されたとも思えない。岩盤規制を突破することが目的化している。岩盤規制の打破そのものが絶対正義になっているように見える。そこに議論を拒絶する匂いがする。政治の劇場化現象である。
法科大学院は次々と閉鎖されている。弁護士や法律家が不足すると政府は予測した。アメリカのような訴訟社会になるというので、今の数倍の弁護士が必要と政府が考えたのだ。日本も国際化されてゆく。海外との交流も増える。日本も訴訟社会になる。法科大学院を作り、弁護士を倍増しなければ次の社会には対応できない、と諮問会議が答申したのだ。ところが法科大学院数も定員も、ピーク時より半減している。訴訟の数自体が減少している。司法試験合格者数を9,000人まで増加させると考えたが、現在の合格数は2000人未満である。諮問会議の予測が甘かったがために、大きな無駄遣いがされたのだ。規制緩和が絶対正義という考え方は危険である。あらゆることに正しさと間違えがある。獣医学部の新設を岩盤規制の象徴としてとらえ、充分な検討をしないという事に問題がある。たぶん安倍氏はその昔、親友の加計氏から獣医学部の新設必要性とその困難さを教えられたのだろう。こういう規制を打破することが政治と考えたに違いない。そのこと自体は悪いことではない。ただその絶対正義の為に、冷静な議論が抜け落ちている。
初めから岩盤規制の打破の正義が、論理を超えてことが進められている。今の時点で獣医師の将来の必要数が話されているが、やりたいなら獣医師の必要数など考えずに自由にやるべきだと思う。岩盤規制など要らない。ただし、補助金は無しだ。補助金を当てにして獣医学部を開くというところに規制が必要になる。補助金政治こそ問題にすべきだ。森友学園も同じだ。籠池氏はいまや補助金詐欺師と呼ばれている。それなら安倍氏だって補助金差配師ではないか。加計学園も理念として四国に獣医学部が必要と考えるなら、補助金を返納すればいい。自力でやると言えば、誰も文句は言わないだろう。ところがどうも学校経営が優先されていることが見え隠れする。これが狡い。総理大臣との親しい関係を利用して、優先的に認可を自分だけが受けたのではないかと疑われて当然である。内閣改造の目くらましで、アベ政権の忖度腐敗を見逃してはならない。