相模原やまゆり園 殺傷事件
この事件の重さは一年経過しても私の中では少しも変わらない。障碍者を殺戮した植松聖被告は自分の行為の正当性を、少しも変えていない。一年経過しても考えを変えない。植松被告の主張はここに記すのも憚るようなひどいものである。人間存在の尊厳について問いかけている。人間は何のために生きる価値があるのかそれぞれが考えなければならない。植松思想はヒットラー思想と同類の思想だ。植松思想が実は、ひたひたと日本社会の土台を侵食し始めているような恐怖がある。何時の時代にも優性生存有理の思想は存在したのだと思う。しかし、それを抑制する共存の理想主義が存在する。そして社会全体としては、穏やかな安寧をもたらしてきた。競争主義はあるけれど、お互い様じゃないかと、融通を付けてきた。その私の中にあるあいまいな博愛的精神に、勝負を挑んできたような恐ろしさがある。あえて言えば、私の中にも植松思想は存在するのだ。だからこそ、恐怖を覚えたと思わざる得ない。
多分、大半の人間は私と同様であって、宗教的信仰や確立した思想を持って行動している訳ではない。曹洞宗には弱者救済の信仰理念はないと思う。つねに自分の中であいまいに揺れ動いている。その生理的な行動の原点に、お互い様だ、明日は我が身と助け合って生きている庶民の感覚が薄れかけている恐怖はある。私の祖父や祖母は明治時代に育った人たちだ。この時代は日本が最も変動し、何度もの戦争の時代を経験した。庶民は日本の歴史上もっとも疲弊した時代だろう。助け合わなければ、生き抜くことなど出来ない時代であった。江戸時代よりもはるかに暮らしとしては厳しい時代であった。列強諸国からの圧迫から、脱亜入欧を目指し、それまでの暮らしを支えた精神の有り方を覆さざる得ない激動期である。その中でも、江戸時代より受け継がれた、庶民の救済思想は残っていたと感ずる。「夕飯を呼ばれるように呼んでこうし。」とよくおばあさんは近所の家族をご飯を誘った。子供の私は、食事事欠いているなど全く分からなかった。
確かにお寺さんだから、そうだったのかもしれない。お檀家さんから頂いた、酸っぱくなったうどんこがあるから、早く食べなければならないから、などと言っていた。まずは、おほうとうでお腹をいっぱいにしてからご飯を食べるような貧しさだったのだ。貧しいから互いに助け合う。そのご飯を呼ばれに来た家族は、薪割りや草取りに来てくれた。何かしてあげるというような空気はお互いになかった。何とかしのぐしかない空気だった。おじいさんはうちの子供は食が細いから、こうしてみんなが来てくれると良く食べるのでありがたいから、子供だけでも毎日来てくれないかなどと、いう事だった。何もおじいさんがいかに博愛主義者であったかと自慢している訳ではない。当時の庶民の空気というものがわずかに残っていた姿を記録したい。
今は確かに子供食堂はある。路上生活者のパトロールはある。頭の下がる活動を続ける有難い人たちがいる。確立した活動として、素晴らしいものがある。と同時に植松思想もどこかに何時もあり、社会の底から強烈に顔を出す。そしてその中間にある、当たり前の暮らしの中の実態というものが、かなり冷淡になり始めていないかである。社会が弱くなり始めていないかである。曖昧な庶民感覚の中にあった、お互い様の思想が失われ始めた恐怖がある。いつの時代もそうであったのであろうが。もしかしたら、国際競争力とアベ政権が叫ぶようになってから、つまり日本が国際競争で抜きんでることが無くなって以来、勝たねばならぬの圧迫感、競争社会の敗者の風が、通り抜けるようになった気がする。仮想敵国を必要とするような日本であってはならない。敗者の自己責任論などあってはならない。生きるという事には勝ちも、負けもない。その者がそのものとして十分に生きるという事だ。どうすればいいのか、恐怖にすくんでしまう。