困った時の憲法改定
アベ政権の公私のけじめの無さから、支持率は急速に低下した。この行き詰まりの打開のために、憲法改定を提案し目先をそらそうとしている。政治危機と言わなければならない。アベ政権は共謀罪、カジノ法案を数の力で押し通した。この時には支持率は低下しなかった。ところが、森友、加計と教育にかかわるところで、馬脚をついに現した。違法性はない。しかし、汚い裏口入学のような、権力を利用した忖度が幅を利かせてきたのだ。安倍一強の中で、安倍氏の思惑のお先棒を担ぐことが、優遇されるであろう道になっている。周囲が争って手柄合戦をしているのだ。名誉校長とか、肩書教授というような具合で、取り巻きと政府がつるみ始めていたのだ。このままではアベソフト独裁政権は転覆する。そこで切り札として出してきたのが、憲法改定である。しかも正面突破の9条2項の改定を次の国会で提議すると、最後の賭けに出たのだ。誰が考えているのか、なかなかの演出家がついている。
さすがに、憲法9条の改定が国会で審議されるとなれば、これより大きな問題は存在しえない。加計が登場して、森友が消えたように、憲法9条問題となれば、アベ忖度問題など小さなことになるだろう。今論議されているのは、実際にある自衛隊を、憲法上も問題のないものにしようという、それを加憲という形で行おうという、いかにも穏便に見える、公明党案への寄りつきである。しかし、この加憲はアベソフト独裁らしいやりかなのだ。クーデターにも等しい軍国化への道を可能にするものだ。そこで、自衛隊の存在を憲法に書いたうえで、文民統制をも加えるとしたものだ。それは、もしここで文民統制がなされないとなると、自衛隊の独走が、軍の政治介入などを含めて、明治憲法下の軍と同様のことになりかねないものなのだ。
何故、70年を超えて、日本が平和を維持できたかと言えば、憲法9条の歯止めによって、自衛隊の自由な行動を規制していたからである。自衛隊法が憲法を拡大解釈して、憲法の理想とする平和の精神をなし崩しにして自衛隊法が出来た。自衛隊は治安維持のために出動していたはずだ。安倍氏が辺野古の米軍基地を作るために、反対運動を抑え込むために自衛隊を出動させたとする。現状ではそれは大半の国民の反感を買うであろうから、自衛隊法が出来てしまい、法的には可能であるとしても行えない。そして安保法案の成立によって、自営買いは絵画への派兵も可能となった。そして南スーダンの戦闘地域に出動した。さらに憲法において、自衛隊の存在が明記され、軍事的な権力として行動できることになれば、自衛隊軍の考える所の正義に向い行動を起こす可能性が出てくる。憲法で武力が否定され、本来であれば自衛隊も持つべきでないのだが、という理想主義が軍の自由な行動を歯止めしているのだ。
憲法9条は軍というものの持つ軍事力自体を否定している。武力によって平和は作れないという理想主義を掲げているものだ。憲法はそいうした、理想を掲げる傾向がある。然しそれは立憲主義とは相反するものである。立憲主義は現実主義である。法律と動揺にそれに従い、国を運営しなさいと、内閣に銘じている原理である。立憲主義で言えば、軍を持ってはならないという理想論は、矛盾した考えか阿であるのだが、この日本国憲法における矛盾が、日本を軍事的な国家にしないで来れた幸いだったのだ。その平和主義によって、日本は国際社会に復帰できることになった。ところが、アベ政権は教育勅語を評価し、学校教育に取り入れようと考えるところまで来た。もし自衛隊が憲法に明記されれば、自衛隊が自立して、自由に行動を始めることになる。日陰から日向に出ることになる。確かに自衛隊員の立場からすれば、当然のことかもしれないが、日本の向かう方向からしたら、理想を半分捨てることになる。理想をここで捨てれれば、日本はいつ何時、明治の御代に戻るかもしれないのだ。ソフト独裁の柔らかさにごまかされてはならない。