農の会の自給祭
自給祭 庭のコンサート
広い野外で唄わせてもらった。遠くのかがんでいる人は、踊っている人だ。
農の会で自給祭が復活して、3回目になる。100人近くとかなり多くの人が集まった。楽しいので少しづつ又人が増加しているのだろう。自給祭の委員会があっていろいろ準備をしてくれている。私は準備の手伝いもできないまま、今年も参加させてもらうだけであった。そして、三線で唄わせてもらった。祭りには唄はつきものだ。ビギンの「海の声」とソールフラワーズユニオンの「満月の夕べ」である。二つともとても好きな歌だ。赤松さんと高橋さんと一緒に歌わせてもらった。ビデオで記録したので、家で様子を早速見ることができた。二人のお陰で何とかそれなりの様になっている。唄というものは素晴らしいと改めて思った。唄のないお祭りなど古来なかったはずだ。それはどの民族でも共通なはずだ。来年こそ仲良田節を唄いたいものだ。日本全国で田んぼが失われ、秋祭りの意味も変わった。小田原では稲刈りの時期にお祭りがあって、私は稲刈りに追われて、祭りに出ることもできない。
農の会のように自分たちで収穫を祝う意味も大切なことだと思う。祭りは暮らしのけじめのようなものだ。今の時代は受け身の消費者としての祭りだ。デズニーランドへ行くことが祭りのようなものなのだろう。家族で出かける娯楽。デズニ―ランドには全く興味が持てない。誰かが作り出した虚構の祭りを享受するだけでは、本当の喜びとは程遠いいものだ。その本当の喜びというものがすでに、見うしなわれてしまったものだ。仲良田節にある、上納すんでという節を唄うと、何か喜びというものと自分の役割というものを感じるのだ。祭りの前に日常の暮らしというものがなければならない。地道な日々の暮らしである。代り映えのしない、百年一日のような平常である。それが稲作に生きる暮らしである。生まれて死ぬまで同じ日々の繰り返しであり、その日々を深めることが生きるという重い実感だった。それが瑞穂の国の平穏無事な安寧である。
現代社会での暮らしは、大きな変容をし続けている。昨日と同じ明日はまずない。常に新しい道の毎日を切り開くような状態であろう。そうした、不安をどこかに抱えている暮らしのなかで、少しでも暮らしの実感を得たいという事が、農の会の活動に集まる人のように思える。暮らしの原点のようなものが、食べるものを自給するという事になる。もちろん良いものを食べたい。おいしいものを食べたい。自分で安く作りたい。様々な動機はある。しかし、農の会の活動に若い人も興味をもって加わってくる要因は、提供してくれるものを消費者として、受け手として位置づけられる暮らしでは、何か違うと感じる人が存在するからだろう。農の会の祭りが一度は無くなったのは、実際の農作業には祭りは関係がないからだ。参加しない人も半数を超えて存在するのが実情である。
農の会の祭りには出ないという農の会の参加者も多くなった。農の会の祭りは、それを楽しみにして参加したい人だけで構成されている。たぶん3分の1くらいの参加ではないか。農の会内のそれぞれグループにしてみると、グループで収穫祭をやる方が重要と考じることもあるだろう。デズニーランドの方が面白いと思う人も居るだろう。人とのかかわりが億劫という人も、農業者には多いいのかもしれない。そういうかかわりの多様性を、そのまま許容するところが農の会らしいところかもしれない。まとまりのないことに、平気でいられるかどうか。違いを違いとして受け入れるという事は、これからの社会で最も重要な在り方の様な気がする。