測定マニア

   

何でも測定することには興味がある。田んぼをやるときには、水温、地温を計ることが楽しみになる。お風呂に入れば、お湯の温度を当てたくなる。体重はとても面白い。ご飯を食べて何グラム増えたとかとか、トイレに行って何グラム減ったか。そいう事を計ること自体が面白いと思う。一晩寝て人間は何グラム減るのか。だからと言ってそれを記録を取り、何かを解明しようという事でもない。なんとなくわかってああそうかという範囲である。父が民俗学の聞き取り調査に入った桧枝岐村におられたお年寄りが、毎年ハエの出た日を障子紙に書きつけていたという話をしたことがある。とても興味深かった。ハエがいつ出たからと言って何かになる訳ではないが、これが日本全体の資料になったとすれば、何かが表れが見えてくるはずである。私の測定は資料にはならないが、自分の中に蓄積されてゆくものはそういうものの貯まりたまったものなのだと思う。

その時にはほぼ意味のない、何でもないものが、何んとなくたまりながら自分という存在を作る。絵描きの道に行き詰まった時に、自分の身体を形成している肉体を作る食べものを、自分の手で作り上げてみるところに戻ってみようとした。自給自足の暮らしを模索した。何を食べて人間が出来ていて、それは自力で可能なものなのかを確かめたかった。それを5年間で確認した。それ以来、自分という生命は生涯絵を描いて生きてよいと思えた。食べるものを確認するのは面白い。そうして自分の自給率を確認してゆく。私は1っ品は採取のものにしてみた。別段理由はないが、そんな風にするのが楽しい。自分という存在を確かに自分が自覚して把握したい。そこに安心というものがある。そう思いながら生きてきた。そうすると、自分というものを測定するのは面白い。体温、体重、体脂肪、血圧、血液検査。

測定してそれが自分の存在と繋がっていると考える訳ではないが、結局はその物理的に把握できる自分存在の、その奥にしか自分は居ないという自覚である。だから測定は直接的には無意味ではある。無意味ではあるが、やはり人間も機械でもある。日ごろの管理は重要である。きしみだせば、大いに影響が出る。絵を描くにも目が悪くなれば終わりだろう。歳をとれば眼は衰える。色の判別は出来なくなる。人間のそういう機能は厳然とある。精神とか心とか、そいうあいまいなものに自分をして置くことは無駄だ。私絵画においては、機械的な自分存在の状態の方が重要になる。機械で簡単に測定できるものもあれば、内臓の状態のようにまずは、内観するしかないものもある。心臓はどうかなと思い、感じてみる。頭はどうかなと感じてみる。目はどうかな。足はどうかな。それだけであるが、自分を確認ができる。絵をそういうものと関連があると考えている。妄想をして絵は描くのだが、妄想するのも機械的な自分だ。

測定をするという事の先にあるものは、自分というものを探り当てたいという思いだ。自分というものが何たるものかを自覚したい。分かったようでなかなか分りにくいものだ。測定して分かる訳もないが、人間が死ぬときに魂が抜けるなら、人間が死ぬときに測定していて、死んだときに体重がいくらか減るはずだと考えて本当に測定した人がいるそうだ。体重が減らないので、抜ける魂がないことが確認できただろう。うして文章を書くのも頭の中の測定である。絵を描くのも見ているという事の測定である。これからだんだん衰える年齢である。目は悪くなり、色や形の判別が出来なくなる。出来なくなったところで描いた絵がその時に自分である。モネは白内障になりそういう色の絵になったという。みて描いて居たということが素晴らしいではないか。文章も頭の思考力が落ちてゆくのだろう。それはそれで面白い測定になる。

 

 

 

 

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