金沢城を歩く

   

金沢に2年ぶりに行った。今回は大学を出て以来の友人に会う事が出来た。水彩人の地方展のことで、北国新聞社の文化部を訪ねた。翌日の新聞に写真入りで紹介していただいた。水彩人も少しづつ認識されたようで嬉しかった。夜には、美術部の同窓会があった。懐かしい人たちにあったのだが、私自身の心持の変化のなさに驚きがあった。学生の時のように、つい今から内灘に行ってみないか、などと言いそうになった。日曜日一日空いたので、金沢を久しぶりに歩いた。そして内灘にも行ってみた。浅野川線という小さな電車があって、これに乗る。昔、海に行けるという事だけで、わくわくしたものだ。今も楽しいのだが、記憶の中の自分に少し、辛くなる。おかしなものだ。

 

金沢城の尾山神社側に復元された玉泉院丸庭園である。私にはあまりに突然の変化で奇妙な混乱がもたらされた。一年ほどこの場所で暮らしたことがある。制作をするには良い場所だった。当時はここには県体育館と陸軍の馬小屋があった。その馬小屋の中に美術部の部屋を作って、寝泊まりをしていた。主にシルクスクリーンの制作をした。そのころはここにかなり広いソバ畑を作っていたおばさんがいた。なんとなく大学の中の不思議な空間だった。まさか日本庭園の後だったとは驚きだ。

このトンネルのあるところが、陸軍の弾薬庫である。この谷間に弾薬庫があったのか、そこに入るトンネルだったのか。それともこのトンネルが弾薬庫だったのか。煉瓦で出来た、高さの7メートルほどもある大きなトンネルである。この何とも言えない穴を良く絵に描いたものだ。あんなに描いたのだが、残っている絵は一枚もない。そいうものかもしれない。夏草に覆われている姿は昔も今も変わらない。

ここは重要文化財の古い倉庫だったらしい。鶴丸倉庫というのだろうか。昔は美術研究室の倉庫にも使われていた。中には面白いものがいろいろ仕舞われていた。卒業生の卒業制作などもここに入れられていた。卒業生に中に自分のものがある人は取りに来るようにと、はがきが来たことがあった。当時はこれが由緒ある建物とは思わなかった。この向かいにももう一つ似たような倉庫があり、そっちは陸軍が作ったものだったのだろうすでに壊されていた。

この地図の教育学部分館の3階に美術研究室はあった。2号教棟とある西側に陶芸の大きな部屋があった。さらに西の石垣の下に、陶芸窯が置かれていた。その北側には、旧生協跡という建物があり、そこの2階に美術部のアトリエがあった。そこでも寝泊まりしていたことがあった。詩吟やお茶の稽古をする畳の部屋があり、寝ようと思えばいつでも寝れたのだ。下宿に帰るのもこの辺で寝泊まりするのもさして変わりはなかった。制作もすぐできるので、ここで徹夜することの方が多いい位だった。それなら下宿はいらないと思い引き払った。

ここは確か図書館と法文学部の建物があり、その前にはテニスコートがあり、小柳さんが良くテニスをしていた。私はこのあたりで発掘のアルバイトをした。どこだったのかと思って探したが、全く発掘の結果はなかった。確かここに溝があり、様々なものが埋まっていた。苦労して、発見したのにそんな溝など作られてはいない。

この写真はお城の一番高いところだ。生物科の植物園になっていた。ここはまるで深山幽谷の感があり、なかには湧水があった。たぶん兼六園と同じで、サイホンの原理で辰巳用水から引かれていたのではないかと想像していたが。お城と水のことを考えると、この水の確保と兼六園の関係は重要なはずだ。昼休みになると、ここまでハイキングしてきて昼ご飯を食べる。たいていは大浦君と一緒だった。大浦さんはそいう事を楽しみたい人だった。大浦さんは大きな農家の人で、お父さんを無くし、彼が中心になって農業をしながら学校に来ていた人だ。

お城の方から兼六園を見たところ。ほぼ高さは同じくらいである。そういえば兼六園で花見をしたのも大浦君の誘いだった。

教育学部のあったあたりを植物園の方から見ている。今工事が行われていた。これだけの大工事をして城跡が整備されてゆくが、金沢の観光客作戦なのだろう。江戸時代は加賀の殿様が居て、明治になって陸軍が来た。そして、戦後の民主主義社会で大学が出来た。そして今は観光資源である。なんとなく時代の変化が表れている。 

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