水彩人展はなぜ公募展になったのか。
水彩人展はグループ展として始まった。春日部洋先生と批評会を月次でやっていた。10名ほどの仲間がいた。先生が亡くなられてからも、批評会は続けていた。そして、ある時、上野でやった水彩連盟展の中のグループ展の帰りに、水彩連盟展では絵の話が出来ないということになった。そこで、本気で絵の勉強をする研究会を作ろうという話になった。そして研究会展をやるという計画を立てた。絵の勉強をしたい、その為に絵の仲間は集まるのではないかという気持ちだった。その時の仲間で水彩人に残っているものは、今では5人である。その時10回までは研究会展をやろうと決めた。研究をするのに最低でも10年は必要だ。銀座の比較的大きい会場で年一回の展覧会を開催した。メンバーは新しく加わる人も毎年一人ぐらいは居た。辞めてゆく人も居た。10回展が終わった時に、これで水彩人を終わりにするのか、話し合いをした。今後グループを拡大して行くのか。終わりにするのか、今のまま行くのか。
そして、研究会としての在り方は継続しながらも、仲間をもう少し増やしながら進むことになった。そして、11回、12回とやるうちに銀座の大きな会場が無くなってきた。場所を変えながら続けた。水彩人とは別にしるべ展という周辺のメンバーの増加もあり、東京都美術館でやることになった。このころはまだ公募展を始める気持ちは全くなかった。グループ展の会場として、都美術館を利用していた。今は都美術館はグループ展でも開催できるように規則が変わったが。当時は公募展以外には開催できない規則があった。そして、東京都美術館の建て替えと、水彩連盟から、公募展をやっているので退会させるという事の2つ問題が出てきた。現実には公募展はやっていないのだが、周りから見れば誤解を生じていた。受け入れられないまま水彩連盟は退会になった。その時期に都美術館の改築に合わせて、新しいメンバーの募集が行われた。その条件が公募団体だけが応募できるという明確な基準があった。そして、切羽詰まって公募団体化に踏み切った。
公募団体になり大きく変貌した。水彩人らしい水彩画が徐々に明確になった。水彩画の公募展と言っても、アクリル画を受け入れている団体もある。アクリル画は会場作品になりがちである。大作で目立つとか、素材の新規さで目立つとか、工夫の絵画になりやすい。公募展会場では、目立つ方が有利という事で、いつの間にか水彩画が凌駕されることになる。水彩人では素朴に水彩画を深めて行こうという考えで、一見目立たないような作品に目を向けてゆく方針である。水彩画の特徴である、紙に水彩絵の具で素朴に描くという奥にある、それぞれの人間の芸術を見つけようとしてきた。公募展としては成立するのか疑問もあったのだが、今や作品の質においては、本質的なものを見せ始めている。それは時代の変貌もある。絵画が会場芸術から、私絵画に移行を始めている。コケ脅かしのような絵画が力を失った。そして、描く人自身の心の底の問題としての絵画が、人に訴えかけ始めた。
水彩人で新しい仲間に出会えた。自分が絵を描くうえで大きな刺激になっている。18回展が近づいているが、ぜひ私絵画を描いて居るものに、応募してもらいたいと思っている。そのむかし、福島の会津の牧師さんで生涯絵を人に見せたことがなかった人の絵画展を見たことがあった。自分の為だけに描いて亡くなられた。だからひっそりと夜の景色を中心に描いた。水彩人は公募団体と言っても、それぞれが自分の絵の研究を深めるためという当初の精神を忘れていない。現代の絵画は意味を変えてきていると思う。職業としての絵かきと、自分の絵を探求する私絵画である。私絵画の到達点は自分を知ることである。自分の絵を模索するには一人で孤立するより、仲間と研究する方が良いというのが、水彩人である。搬入は19日である。今からでもふだん描いて居る絵を出すことができる。