暮らしの手帳:とと姉ちゃん

   

朝の連続テレビ小説「とと姉ちゃん」は暮らしの手帳を作った、大橋鎭子さんと花森安治さんの話である。暮らしの手帳の考え方は、私の発想とよく似ているので嬉しくなった。残念ながら、暮らしの手帳を読んだことはない。読んだことはないが、こうして自給生活を模索してきたなかで、話の手帳が商品テストを繰り返すように、自分なりの試行錯誤を行ってきたわけだ。実はやってみたところで全てが分かる訳ではなかった。自分のやり方にたどり着くという、万が一の事例である。その事例を集めることで、自給の暮らしがわかるのだろうと思ってきた。田んぼが100枚あれば、100通りのやり方がある。例えば、いつも迷う田んぼの干しのことだが、干す人が97%くらいいて、干しはやらないという人が3%くらはいる。両者はやるかやらないかの逆の結論なのだが、その理由は両者ともに正しくある。それが、自給の暮らしというものだと思う。自分に合ったものを見つけるという事が暮らしなのではないだろうか。

花森氏は戦争をしない世の中を作りたいという思いを、暮らしの手帳で表現し続けた。読んだことはないが、あの表紙だけはよく覚えている。表紙のすべてを描き続けたのが花森氏だ。あの絵は暮らしの絵であり、平和の絵だ。平和の空気を伝えることで、戦争のない世界を提案している。絵というものの役割を良く表している。絵も100人100通りのもので、自分と違っているからと言って否定する必要もない。自分の絵を描けばいい。花森氏の作品はデザインで在って絵ではないという人も居るだろう。それは絵というものの意味を狭く考えすぎている。良い表現をしているものと悪い表現のものがあるだ。目的があろうがあるまいが、画面で自分の何物かを伝えているものが良い絵である。そして花森氏の絵が、暮らしの場から平和を語ろうという事を私が感じるという事が、絵の役割なのだろう。

政治家が農業の経験もないのに、「国際競争力のある稲作」などと発言しているのを聞くと、実のない空論を掲げていると感じてしまう。政治は暮らしの場の実感を反映していなければならない。経験だけが、暮らしには役立つのだ。経験というのは、実に多様で一人一人違う事になる。違うから間違いなのではなく、真実だから違ってくるのだ。政治はその100通りある中で、多数決で一つの道を選ばなければならない。だから政治は必ず自分の願いとは少しづつ違ってくる。しかし、100通りの暮らしの願いの緩やかな方角はおぼろげながらある。このおぼろげながら見える方角を整理して、指し示すのが政治なのだろう。その方角を戦争の方に向けてはならないというのが、花森氏の願いだった。それは戦争協力をしてしまった人の反省であり、その後の生き方だったようだ。

日本人の暮らしを変えようとした、ととねーちゃんと花森安治氏、良い暮らしの提案をすることで、平和な日本を作ろうとした雑誌があった。その思いはあの表紙絵に漂っている。絵というものはやはりすごいものだ。私のように暮らしの手帳を一度も読んだこともない人間に、暮らしの、ひとかけらを大切にして生きて行こう。この思いは十分に伝わっていた。私にできることなど小さい、ささやかなものではあるが、志は同じだと思う。自給の暮らしのかけらを記録し、残して置きたい。そして、その自給の思いを絵にしておきたい。それは自分が自給の暮らしをどこまで深く自覚できるかにかかっている。日々の暮らしを大切にして、そのことに深く入ってゆきたい。

 

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