良い世の中にするために絵を描く
水彩人では絵を語り合う研究会をやっている。先日の絵を語る会で、学生の頃良い世の中を作るために絵を描くと考えていたと語り、若干失笑をかった。そうだろうと思う、自分でもその後50年絵を描いてきて、私の絵が社会を変えたとは思えない。もちろん、この50年社会を変えた絵はあったかと言えば、なかった。私の絵が力不足なだけではなく、世の中を変えたいなら、絵など選ぶべきではなかったのだ。そのことが失笑の対象になったわけだ。当然のことである。では、デモをして何かが変わったことがあるかと言えば、デモの方がいくらか効果があるようだ。では、何をすれば世の中は変わったのだろう。何をしたって世の中はずるずると悪い方に引き込まれてゆくだけに見える。お仲間優遇のアベ政権ですら、世の中を変えることなど出来ないようにも見える。何か人間の業というか、宿命のようなものが世界を混沌に引きずり込んでいる。この人類の何かに突き動かされ、亡霊のように歩まされているかのようだ。
山梨の寺尾の景色 上の絵が描いている途中 遠く南アルプスが見える。
絵を描くことは自分を変えることであることは、間違いがない。絵を描くということで自分を確認できるということは確かなことだ。変わってゆく自分の記録が絵。絵を描くということは楽しいからやり続けている。だから修行の厳しい側面はない。どうにも思うように描けなくて困るというようなことがないわけではない。それでも、絵を描く楽しさは、生きているという深い所での実感がある。その意味では田んぼは行であるかもしれない。座禅のような意味不明なものに、行を感じることが出来なかった者としては、行は具体的な行為がなければできない。武道や、音楽のように、結果が具体的なものだ。武道の名人が、弓を忘れるならいいが、今の武道は弓を忘れるどころか賞金を目指すブドウに成り下がる。それでは人間を深めるどころか、堕落させるだけだ。賞金という餌につられた、見世物である。武道が世界を良くするどころか、堕落してゆく世界の息抜きになりかねない。
それは絵で言えば商品絵画の世界である。売れる人が偉い大家の画家である。ピカソの絵は1億円だから素晴らしい。絵画投機。しかし、芸術としての絵画は人間にどれだけ影響を与えられるかだと思う。ゴッホも、セザンヌもまるで売れない絵描きではあったが、人類への影響はあった。社会にもあったのだと思う。絵というものを通して、人間の問題があるからだ。人間が生きるという不思議が描かれている。絵はその人間のレベルまでである。人間の不思議の精神世界の中に分け入らない絵であれば、それは装飾品どまりである。自分が生まれてきて死んでゆく、生きているというこの時間の中で、自分存在の実感にどこまで迫り、その迫り方をそのままに示すことができるのが絵だ。私は今を自給生活で十分楽しく生きている。その楽しさの深さを絵は示しているかもしれない。人は死んでゆく。その死んでゆく悲しさも感じている。その受け入れられないが受け入れるしかない、どうにもならないものも描いている。
絵は確かに社会を変えるような直接的な力は失われた。しかし、絵というものは人間の真実を感じる手段としてはすごいものがある。人間の奥底にある訳の分からないものを、訳が分からないままに、そのままを伝えることができる。それは私にだけ私の絵が見えるという事かもしれない。ダビンチさんも、雪舟さんも、石濤さんも、マチスさんも生身の人間として、私の前に絵として存在を続け、その生き様の深みを絵画として残している。個としての人間の私と、物存在としての絵の間にだけ伝わる、なにものかがある。これが人間というものが本質に向かう、道しるべになる可能性はある。人間が生きることの真実を感じるようになれば、戦争などしない人間になるだろうと信じている。他者を思いやることのできる人間になれると信じている。私にできるかどうかは別にして、絵画がもう一度、私の中に戻ることでその力を取り戻せるのかもしれないと、まだ諦めないでいる。