無くなった自然養鶏
世の中が変化して、無くなる仕事があると言われると、不安になる人もあるかもしれない。世間的に言えば無くなってゆくはずの、昔の養鶏を仕事としてやった。自然養鶏というものは、失われている仕事を復活したようなもので、他にやる人は居なかったので、競争がないという点で成立できたのだろう。日本からなくなった仕事であったからこそ、生計を立てるという意味では案外に楽な仕事だったようだ。私が自然養鶏というものを始めた時には、似たものに平飼い養鶏というものがあった。オートメーション工場のような大資本の養鶏業に対抗して、せいぜい何千羽単位で地面に平飼いを農家的な規模で行うものである。工場養鶏はケージ飼いと言って、何段にも重なった狭いところに詰め込まれているので、地面で暮らしているというだけで、イメージが良いという事になった。ところが、餌はどちらも似たものを与える。私は子供の頃から鶏を趣味で飼ってきたので、どんな飼い方で良い雛が取れるかはそれなりに知っていた。良い雛が取れる卵が良い卵に決まっている。ここに私の養鶏業の道が見えた。
鶏の飼い方が知りたくてさまざな鶏飼いを尋ね歩いてみた。見せてくれないところが多かった。いかに平飼い養鶏に嘘が多いいのかを痛感した。本当の良い養鶏がやれることを身をもって示そうとした。発酵利用の自然養鶏を始めた。こうなると、子供の頃からの趣味で培った技術がものを言って、日本で唯一の自然養鶏をやれるようになった。放し飼い。発酵飼料。自家鶏種の孵化。その結果無くなったはずの伝統農業であるからこそ食べて行けるという結果になった訳だ。つまり人間が生きてゆくという事は、世の中の動きをどのように見るかである。自然養鶏は大変だからできない。やれたとしても効率が悪くてできない。たぶん大抵の賢明な人はそこまで考えたところで止める。始めたとしてもなかなか続かない。私は誰よりも鶏が好きだったので、楽しい自然養鶏が可能になった。
無くなる仕事とはどういものか、ロボットや人工頭脳に置き換えられるだろう仕事のことだろう。危険で汚い仕事が無くなるのは悪くない。無くなるという事は少数派になるという事で、危険でも好きなら存在は可能という事になる。まあ、電話のオペレーターが好きという人は少ないだろうが。私は鶏が好きで、飼えればいいと思っただけだ。商売になろうがなるまいが、飼っていたいというのが本当の所だ。だから養鶏業は止めたが今も鶏は飼っている。生きるという事を出来る限り味わいたいという事だけだ。おざなりに鶏を飼うのではなく、とことん鶏というものを極めてみる仕事が面白いことだ。人間が生きる為に仕事がある訳だが、人間がその人らしく生きるという事が全ての大前提にある。自分らしくあるために仕事を作り出す。問題は自分らしいもの、自分の好きなものに生きる目標が見つかるかどうかにかかっているのではなかろうか。このことはそれぞれのことなので他人のことは分からない。
絵を描くことが好きだ。これだけは生きている限りやり続けたい。そのくらい面白い。有難いことに100歳でも体が動く間は可能な仕事だ。65歳まで自然養鶏をやれた。70歳までは自給農業をやるつもりだ。この2つのお陰で絵が描き続けられた。それはお金のことではない。生きるという事をそのことを通して知ったという事だ。鶏を飼い農業を突き詰めている内に、描くべきものが見えてきた気がする。有難いことだ。絵を描き、自分を探るという最も難しい仕事を、好きなことをやり尽くすことで、近づくことが出来たのかもしれない。そう気づいたときが養鶏を止めた65歳である。最後の絵を描く仕事に向かった時である。あと何年残されているのかは、運命に従うしかないが。30年ぐらいはほしい感じだ。そんなに元気で生きていられる人はめったになかろう。それなら20年だが、これなら焦らないでもいいかも。あと10年しかないとすれば、相当にせわしい感じになる。先の事は考えてもしょうがないが、ここまでこれたのだから、自分なりの10年をまずやり尽くしたい。