水彩筆3-1
水彩画を描く道具では何より筆が大切だ。筆は上野の池之端にある不朽堂の宮内さんのものが好きだった。しかし、その後ご主人が亡くなられて筆も変化した。そのご主人もいつも親父と較べられてまだまだと言われていると話されていた。娘婿の方が清晨堂になって、そこの隈取筆は使っている。宮内不朽堂という別会社も出来たようだ。いろいろある隈取筆で試してみたがは私には別物と思えるほど違う。日本の筆が良かったというのは過去の話で、今は中国の方がむしろ良い筆があると、私は思っている。良い筆があるというより自分に合う筆があるということだろう。中国では大昔文房四宝「硯、墨、紙、筆」と言われた。特に硯の良いものが骨董として大切にされた。私もそれなりのものを持ってはいるが、骨董というより実用である。最近は隈取のような短峰の筆よりも、かなり長い穂の筆を使ったりする。線の表現の微妙な違いは長い穂の方が出る。この場合穂先は鋭くない方が好みだ。洗いほぐすと毛先がまっすぐに並ぶような筆で、しかも腰があるものが使い良い。
重要な選択がその時々に合う筆である。描く気分で筆は選ぶざるえない。弘法大師ではないからだろう。500本を優に超える筆を持っている。ひどい無駄なようだが、それくらいあっても十分という気がしない。使い込んだ筆が戸棚の中にしまってある。以前猫にかじられたことがあったので、厳重にしまってある。当然防虫剤も入れてある。筆の管理には私なりに気を使っている。ぬるま湯で洗いリンスまでしている。リンスでも水の含みを悪くするものではだめだ。自分の頭にはリンスもシャンプーも使わないのに、筆は気が向くと丁寧に手入れをする。好きな筆は30年使っている。同じ筆が30年使える。絵を描くというのはお金のかかるものではない。私の隈取筆の使い方は力業になる傾向がある。自由が利く。穂が短い上に、絵具の含みが良い。自分の感じているものを的確に線に反応してくれる。それで一番使用頻度が高くなる。水彩絵の具は油彩絵の具に比べて案外に伸びの悪いものなのだ。
短鋒の筆でも隈取もあれば、雀頭というものもある。こちらは写経用という事になっている。雀と似ているとは思わない。あえてこれをほぐして使う。雀頭筆は天平筆ともいう。正倉院の御物の筆はみんなこれだそうだ。筆を手に入れたらば、ぬるま湯で良く洗う。糊を落とす。穂先だけほぐして、絵具も穂先以外に付けないというのは書道の流儀。水彩画では筆全体をほぐして柔らかくしておく。その状態で使えないものは、水彩には向かない。柔らかく扱いにくい筆を上手く使う人は水墨画のほうだ。私はそこから学んだ。書道筆で水彩を描く場合でも糊は良く落とす。筆先で描くのではなく筆全体で描く。筆先を使いたい気分なら細い筆を選ぶ。水墨は一本でどんどん進めるようだが、水彩画は色がある分、筆は同じ太さが何本かいる。紙に対して力の限り押し付けて出る調子というのもある。同時に穂先で滑らせても出る調子。中国でも雀頭筆の時代があったという事だが、その意味は少し違うと考えている。短鋒、短穂の筆が好まれたのだと思う。長峰の筆はよほどの毛で、よほどの技術がなければ、その良さは発揮できない。
長峰の筆は人間的なのだ。扱いにくいところ面白い。個性の時代には穂は長くなる。超長鋒 軸の6倍以上。長鋒 軸の4.5~6倍。中鋒 軸の3~4.5倍。短鋒 軸の2~3倍。超短鋒 軸の2倍以下。となっているそうだ。そして書道の筆には太さで号数があり、1号の方が2号より太い。もちろん大、中、小の表示もある。所が水彩筆は逆で太いものほど数字が大きい。硬いものが初心者用というのはありそうな間違えで、油彩用の硬い豚の毛や馬の毛などなかなか扱いにくい、硬い筆だが難しくて面白い。毛の種類はありとあらゆるものがあり、私は稲わらで自分で作った筆も使う。木や竹をつぶして繊維にした筆もある。気持ちが現れる筆はあるのだが、何をどう思うかが分からなければ筆も選べないことになる。その時に的確な筆を選べなければ、水彩画は通り一遍のものになる。水彩画は名人芸なのだ。使いやすい筆にはまり込むと、それ以外の筆を使えない、つまり、一定の絵しか描けなくなる。しかし、筆は使ってみなければどれが良いなどという事はまるで分らない。