自分の為だけの意味

   

日々自分の興味だけに生きるようにしている。人の為などそれらしい行為も避けたいと思う。あくまで今日やりたいという事で一日を過ごしている。充実などしていないでも一向にかまわない。ただボーとしていたければそうする。絵を描きたくなれば絵を描く。酒を飲みたくなればただ酒を飲む。やることに意味がある訳ではない。野良犬は頼まれ仕事があるかのようにスタスタと歩いている。一回りすると今日の任務が終わったかのような充実を見せてゴロンと横になる。誰にも喜ばれない。誰にでも無視される。それを一番として、野良犬はスタスタと歩く。私にはその思い切り良さもない訳で、何やかや言い訳のようなものをつぶやきながら、ああ今日も好きなことをやろうと思う。スリットドラムを作って敲く。もっといいものができると思って、工夫して又作る。別段作ったものに意味があるとは思わない。たぶんごみになり、迷惑をかけ捨てられるのだろう。それは描いている絵も同じことだ。

自分の興味を突き詰めてみたいという事に尽きる。突き詰めて何になるなどという事までは考えない。たぶん何にもならないだろうが、自分の納得のゆく音が出れば、うれしいという事に尽きる。自分の見えている世界が絵にできればそれでいい。もっと良い音のものを作っている人がいるのだろうかと思うが、たぶん自分にとっては、自分で作る以上の音のするものはないだろうと思っている。私の見ているっ世界が世間的に良いものであるかは、よく分からない。世間にはこれはないと思うので、作りたくなる。「清平のひょうたん」である。ヒョウタンなどどうでもいいことではあるが、自分の良いという感覚に向ってを突き詰める面白さである。すでにあろうがあるまいが、無駄であろうがあるまいがどうでもいい。結局はそこに来た。

生きるという事は、たぶんそういうどうでもいいことを突き詰める、繰り返しのようなものだ。世間的な評価とか、価値とか、そういうものと生きることを味わえるかという事は関係がない。100メートルを走るものが、10秒切らないから面白くもないというような意味は、外部的な評価だ。9,9秒で走れる人は世界一にならなければ価値がないかと言えば、それも外部的なものだ。そうした外部的な価値観と、自分が生きるという事を繋げて考えないことにしている。今日生きていて好きなことは出来るのであるのだから、それ以上のことは考えない。欲張って褒められてもどうしようもない、何も変わらないという自分がいる。それは確固たる覚悟というようなものでもない。諦めでもない。大した残りがある訳でもないので、ともかく今やれることをやれるだけ味わおうというような感じだ。それで結構いいかなという感じで今日もいる。

作ったスリットドラムを販売しないのかと先日三線の先生から言われた。販売は全く考えていない。水彩画もどうしても欲しいという人には差し上げてもいいのだが、売りたいとは思わない。どうせ燃やされて灰になるものである。それでもこれという木の太鼓が出来たら、パーカッションをやる人に差し上げたいと思っている。そして感想が聞きたい。多分それがさらに良いものを作る参考になると考えている。その日暮らしである。まっしぐらではない。「ダメだっていいじゃん」というのが子供の頃からの口癖だった。「それでいいのだ。」グタグタで気分次第である。だから、大変なことは大体避けてしまう。畑の草取りなど、やらなければやらなければと思いながら一日延ばしである。そのうち理由をつけてやらずに終わることもままある。それでも自給なら生きられる。自給はその程度のものだ。世間的に言えば単なるぐうたらである。ひどいものと言えばいえる。今日もまた絵でも書きにゆくかという事で、まずどうにもならないだろうとは思うが、一日絵を描いて終わってしまう。

 

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