生活者に成る為に
2016/04/09
生活者になることは簡単に見える。消費者を止めて、自給的に生きるだけだ。それを実現しようとここまで来たが。食べ物を作り、田舎で古い家に暮らせば生活者に多分なれる。50年前までの暮らしに戻れれば生活者である。物をお金で換算しない。作るお米を労賃で考えればいくらになるというような感覚から抜け出る事が難しい。本当に必要なものはお金に換算できない。お金にこだわらないことにしている。車にも乗る。インターネットもやっている。御都合主義こそ生活者の一面である。ごく普通の人の姿の方が生活者らしい。消費者に沈まないことを目指している。消費税が上がることを喜ぶくらいに立ち位置である。いつの間にか生活者が消費者になった。自給的であった暮らしが便利で、苦労要らずのお金で済ます暮らしに変化して来た。
戦後の日本人の暮らしは消費者化の一本道だった。山梨の藤垈の子供の頃は竈で薪を燃やして暮らしていた。プロパンガスが来たのは、中学生になってからだった。12月の薪の準備は、大変ではあったが、充実感のある物でもあった。木を伐り倒し山から降ろしてくる。チェーンソウなどなかったから、のこぎりで切る。子供でも一人前に仕事があった。寒さでかじかんだ身体が、のこを引くことで汗ばんでくる。一日中のこを引いていられたのだから、一丁前ではあった。薪を積み上げて木小屋一杯にためなければ、一年暮らすことは出来なかった。一定量木を下ろしたら、今度は薪割である。子供は粗朶木を束ねる仕事だ。同じ長さにそろえて藁ひもで縛る。結構コツがいる。ぎゅうぎゅう占めて、形を整えて木小屋の裏に積み上げる。太い薪と同じくらい必要だ。割った薪を倒れないように木小屋に詰めるのも子供の仕事だった。2メートル摘んでも倒れず、乾燥しやすいように積み上げる。薪割での楽しみは栗虫。あの香ばしさはたまらないものがあった。
プロパンガスは手軽でお金さえ払えば、それで済むのだから、何とも楽なことだった。楽になったが失われたのは薪を作る充実した喜びである。東京にいても薪づくりの時には必ず向昌院に行った位だ。学校で学んだものより、貴重な体験だった。そして、石油ストーブが登場した。薪もいらなくなった。いらなくなって山は荒れた。いらないので里山はすべて杉、檜に変わった。そうしてあの山の中の一軒家の自給の山寺でも、いつの間にか消費者になっていた。消費者になるという事はお金ですべてをすますという事だ。それでも食べ物はだいぶ後まで自給を続けていた。味噌、醤油、お茶、小麦粉はだいぶ後まで作っていた。今でもお米だけは作っているようだが、大半の食べ物は購入する消費者である。それは、たぶん日本全国で起きたことなのだろう。食糧を自給している暮らしは日本人の3%という事だろう。
50年で日本人は暮らしを変えた。エネルギー自給をしていた日本人がネルギーを外国から購入するようになった。当然お金がその分必要になる。そこで輸出を増やす。農家が無人販売している感覚では、外国に商品を販売するということは出来ないだろう。商社というものが必要になる。世界中の経済が絡み合い、いつの間にか企業というものが国家を変え、動かし始めた。国の成り立ちは司法や議会や行政で出来ているというより、企業の方針で動かされている。税金を節約するために、国を超えた節税をする。企業は国を超えた利害の中で動いている。政治は企業の思惑を計るものになった。企業の繁栄を最重要課題として政治が運営されるようになった。農協という企業は重視されるが、農家は軽んじられる。世界と競争して勝つ農業が奨励される。自分が食べる作物を作らない、販売農家の合理性が求められる。このように50年の間に、生活者は消え、消費者ばかりになった。私もなかなか生活者になれないでいる。