庭の畑をつくる。
淀井彩子さんという絵描きがいる。むかし庭の絵をよく描いてた。個展で庭の絵ばかりだった記憶がある。その時は絵画としての意味はよく分からなかったのだが、庭を描くことに興味が引かれるようになってはじめて、庭の絵というものの意味が見えてきたところがある。私にとって、庭は自分が作るものである。モネがそうだったように、小嶋善三郎がそうだったように、自分の絵を描く材料として庭を作る。小嶋善三郎さんの息子さんからその話を聞いたことがある。庭は自然と触れ合う場所である。風景との直接のかかわりが庭の絵である。ボナールは美しい庭の絵をたくさん残してくれた。光の注ぐ輝く庭を描いた。それはボナール日常から産まれた、憧れの世界ではないだろうか。その明るい日差しの中に存在を浸しておきたくなる、親密感。限りない美しさという意味で最上の世界だと思う。あの美しさに魅了され、絵を描きだしたのだと思う。自然の色彩ではなく、ボナールの庭の色彩に憧れて絵を描き始めた。
やっと最近になって、庭の色彩はボナールの絵に教えられた色彩に満ちている。生きている色と絵の色とのつながり。自ら発している色。絵の色にそれを置き換えることのできたボナールのすごさは、際立っていると思う。ボナールの絵から教えられた色が庭にはたくさんある。庭の絵を描く度に、ボナールの発色のことを思い起こしている。光を発する色彩である。ボナールの場合、絵具自体が美しい色になっている。マチスの場合は、色の関係で全体の絵が見事な調和をなす色彩感。色の関係とは差別なく、どの色も美しい色彩であるという前提がある。濁りがあろうが、暗かろうが、関係によって色は美しくなるという事だ。ところがボナールの色彩においては、その色自体が美しく発色していなければ許せない美しさである。総合性と細部化ともいえる色の魔術師の二人。日本人の色感というものは、当然、細部化であろう。一つの色の持つ魅力をどのように組み立てられるかに苦心する。
庭というものの魅力は総合である。自然に対する哲学の表現として、世界観というものを、世界と人為というもののの関係性を庭ではかるのである。自然に手入れをしながら、内なる自然を再現しようとする。庭の哲学。自然と造形の関係。寺院に庭というものを作る意義がここにある。造形としての美と、自然との関係性。つまり、人間というものの哲学と、自然の摂理とのやり取りの具体化が庭にはある。だから庭には作者が存在する。そこで庭の畑である。庭よりもさらに生活に根差した自給畑を作り、庭の畑を描くという事である。自給の暮らしを表す実用の美である。良くできた畑は美しいものである。畑というものが持つ実用性は作物が良くできるという原理に基づいている。季節季節の自然に即した意味が存在する。ここにある自然と暮らしの混然としたものを描くことが出来れば、面白いと思うのだ。
そのことに気づいたのは、下田にある庭の畑である。まるでボナールの庭を具現化したような美しく輝く庭があった。思わず、見ず知らずの家でもあるにもかかわらず、お願いして絵を描かせてもらった。それから、様々な季節に通って描かせてもらっている。それは庭というより、自給畑なのだ。自給畑の中に、様々な花が混ざっている。その花はハーブ類が多いい。例えばネギ類の花を植えることで、コンパニオンプランツとしているのではないか。ネギを植えないで、ネギ類の花を植えているところが奥が深い。そのほかコリアンダーとかカモミールなどもある。全体ではお花畑である。それが自給の畑になっているのだ。大きさは1反ぐらいの敷地に家と庭がある。緩やかな南傾斜地である。自然と耕作地の手入れによる調和。心得た手入れによって、ある安定が生まれている。先日お伺いしたときにおじいさんがおられた。おばあさんが畑をされていて、病院通いなどでなかなか手入れが行き届かないと言われていた。