見ている絵
見ることで生きる力が湧いてくる。考えることより、見ることに喜びも、深さも感じる。舟原の風景を見ているうちにそんな気持ちになる。ある日初めて見えるという事がある。昨日まで見えていなかったことが、見えるようになる不思議。同時にある日見えなくなるという事もある。確かに見えていたのに、見えなくなってしまう。目が曇るという事なのだろうか。この見えている違いを描き留めているのが、今描いている絵だと思っている。見えていることだけを描こうとしている。別段美しく描こうとか、良い絵画を描こうというつもりはほとんどない。見えていることを確認できるように描き留めたいのだ。このことを絵を描きながら何度も思い返し、忘れないようにしている。人間の目に見えるものというのは、そこにある情報の、何万分の一であるはずだ。目に見えていない情報は無限というほどある。そこにいる微生物の違いなど、肉眼で見てもわかるはずがない。ところが、見えないはずのことが見えるようになる。
人間はその人の力量によって、見える範囲を生きている。見える範囲を広げるということが、努力の方向の様な気がしている。見えるためには科学的な分析能力が必要である。不思議に輝く雲がある。この雲の色には原因がある。その原因を知って、見てみると、さらに見えてくるものがある。畑を見て、緑のものがあると思う。大根があると分かる人もいる。あれは漬物大根だと分かる人もいる。あと収穫まで、3週かかるという事まで分かる人もいる。消毒をしたようだ。日当たりが悪そうだ。あそこは病気が出やすい場所だ。あの辺りは草は抜かない方が良い。土の様子では土壌の酸性が強くなっている。次は堆肥を入れた方が良い。などなど、畑をやっている人には見えるものがある。自然を知る材料を手に入れるのが科学である。その綜合に見るという行為がある。見えるようになるという喜びがある。
水彩人の仲間に橘さんという人がいる。彼は現場主義である。よく見て描けというのが口癖である。ところが彼の絵は、まさか見て描いているはずがないというほど、現実離れしている。現実を写しているような様子は全くない。橘氏の見ている世界を追っているのだろう。見ているの全くの違いには驚く。見て描いたとわかる絵は見ていることの世界観が哲学としてある絵なのだろう。モネも見て描いた絵描きである。自分の見えている世界にこだわりぬいた絵と言えるのだろう。モネが見ていた世界は人類で一番見えた人だと思わせるものがある。見ているのは私もモネも一緒なのだが、見ている世界がモネの場合は人類的とでもいうような、深い共通性をたたえている。モネの絵を見て、見えている世界というものを教えられるという事がある。光というものが、どのように物を写しているかを教えらえる。ああ自分にはそこは見えていなかったと気づくことがある。それが肉眼で見えるという事を通して気付かさせられることだから、モネの眼の徹底に驚く。
ある絵画手法で世界を見てしまうという事では、実相というか、世界の成り立ちは見えてこない気がする。日本人であるから、心の世界を絵にしたいという事はある。梅原龍三郎や、中川一政や、鈴木信太郎らの絵は、世界観を感じさせる絵である。見ているという事の中に、自分の哲学がなければ見えないようなものがある。見えるという事はその人間の深さの反映であって、絵の上でのことではないという話になってしまう。自分にはとてもそこまでは見えていないようだ。自分に高い哲学がない限り、そういう見え方というものは、いくら見たところで出来ないことなのだろう。そう考えれば、良く見えるためには、日々生きることの努力をするほかないという事になる。この見えるための努力の方法が分かればいいのだが、これがまたわからない。