焼き締めの陶器

   

左は沖縄本島読谷村のやちむんの里の金城明光さんのビールコップ 右は吉備高原、大和山の南斜面で作陶をする玄明さんのマグカップ

最近焼き締めの陶器に興味がある。写真のものなどだ。焼き締めの壺や備前焼などだ。沖縄の読谷村の陶芸家金城明光さんの所で購入したビールカップで飲むビールがおいしいという事から始まった。なぜかおいしいので壺屋焼きの甕で仕込む古酒作りをはじめた。梅酒も備前の壺に仕込んでいる。青ヶ島の青酎ももう10年以上のクースになっている。良い甕で仕込んだお酒がおいしくなるという不思議から、備前焼の壺に惹かれることになった。器も徐々に焼き締めのものに変えて、今も備前焼の玄明さんの器でコーヒーを飲んでいる。びっくりしたのは使い始めて、1か月で色が素晴らしなったことだ。土を直接味わえるという事が、焼き締めの魅力ではないだろうか。備前の土がそもそも田んぼの下の土であるというのも、うなずける。日本人の暮らしが作り出した土が、良い焼き物になるとすれば、うれしいではないか。

学生のころは陶芸をしていた。卒業制作は陶壁の作品だった。1間四方の陶の壁を作った。指導は畏れ多くも北出不二雄先生である。当時も先生の素晴らしさは理解していたのだが、いまさらながらすごい先生に指導していただいたのだと思う。作品は15センチ四方位の素焼きのタイルを中心に作り、大きいものでは30センチ四方ぐらいの長方形のもを作って組み合わせたものだ。全く素焼きのままのところへガラスを組み合わせるタイルだ。様々な形のへこみを作り割った色ガラスを入れて焼いて、色を出した。釉薬は使わなかった。素焼きの調子と、色ガラスを厚いところでは5センチぐらい深さのある様々な形の穴にいれて溶けた色合いを生かしたものだ。作品自体は、動かすこともできない重いものだったから、終わってすぐに解体せざる得なかった。その作品の写真すら残っていない。一つぐらいピースを残せばよかったのだが、寝泊まりしていた美術部の部室の馬小屋のどこかにおいてそのままなくなってしまった。

素焼きと言っても、シャモットを混ぜて、粗い調子を作ったり、弁柄を混ぜて黒っぽい土にしたりした。色ガラスはごみ集積場のガラス置き場に何度か行って、様々な空き瓶の色ガラスをもらってきた。赤から、青、黄色、とどんな色でも捨てられていた。北出先生は何を表現するのかという事を繰り返し言われた。表現する内容が問題なのであって、工芸的なものではだめだという事を指導された。具体的な技術については何か言われたことはなかった。下書きのデッサンを何度も書きなおしをした。結局、表現することが何かはわからずじまいだった。興味があったのはガラスと土の素材感の面白さだった。その時彫刻の米林先生は生活や暮らしのない学生に表現する内容などあるわけがない。と言われていた。学生の生活は暮らしとは違うが、感情に満ちたものだったわけだから、それを表現すればよかったのだ。学生の日常と作品がつながらないのは、若いが故ではないか。

教室には6人しかいなかった。良い仲間と良い先生で、ずいぶんもったいないような時間を過ごさせてもらった。絵を描いて、陶芸をして、いつも美術に関して何かしていた。卒業できればいいぐらいに考えていた。時々、北出先生の弟子の方が学校に見える。先生が学校に来る日には、先生の指導を受けたいという方が、何人も見えていた。北出先生はその人たちの作品に対しても、「表現したい内容は何か」と、繰り返し聞いていた。それ以外のことは言われなかった。たいていの場合、駄目だと厳しく言われた。作品は表現でなければならないという事を教えられたと思う。弟子の一人が、私の作っていたものを見て、君は色に興味があるようだねと言われた。なぜかそのことが強く頭に残った。素焼きに5センチもの厚さで色ガラスが散りばめられているのだから、そう見えたかもしれない。しかし、私の中では素焼きの荒い感じと、ガラスの透明な素材感の違いを、土の魅力として表現したいという気がする。それが芸術表現とは違うという事が、北出先生の教えだった。今なら少し理解できる。

 

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