能力主義と格差

   

格差はない社会の方がいいに決まっている。それでは人間努力をしなくなるだろうということも否定しない。生存競争があって、生き物は頑張る気になると言う事は現実だ。問題は、努力もせずに、たまたま大金持ちの子供に生まれた人間が、より大金持ちになってゆく社会構造である。そんな新たな階層社会が産まれて来そうな不安。努力した人間が、富を得ると言うのはまだ許せる。しかし、たまたま大金持ちの子供だったために、その親より大金持ちになってゆくような、資本が資本を生み出しているだけの社会はまともではないだろう。アメリカの社会は既にそんな状態になりつつある。資産による階層社会。資本主義が進んでそこに収れんされてゆくのは、予測された通りのことだ。ナッツリターンではないが、韓国社会も同様である。日本はまだそこまでではないが、その兆しは見え始めている。若年層の貧困と、教育の格差が産まれている。それが、階層社会を深刻化して行く事の原因になる恐れが強い。

努力もしない、働かない。それで貧しいというのは仕方がないことだ。しかし、子供たちが努力しようにもその場を持てないという貧困ほど、おかしい事はないだろう。学びたい若者が学ぶ事が出来ないのではおかしい。ありがたい事に、自分は学びたいだけ学ぶ事が出来た。その道が特殊なのかは分からにいが、親が学費を出したのは、中学までである。それでも、今に至るまで学びたいだけ学ぶ事は出来た。今の若者はどうなのだろう。アメリカの貧困ほど哀れなものはない。同じ社会に大金持ちがいて、セレブとか呼ばれて別世界を作っているのだ。しかも、その格差は固定化され、どれほど努力しても無駄な努力だとすれば、ひどい社会だ。アメリカは世界一の裕福な国でありながら、貧困層の暴動がおこる国だ。すべての人が普通に生きる事の出来る国の方がいい。普通の能力の人が、普通に働けば、普通に生きて行ける国だ。特別な能力の人だけが裕福になれる国とか、親が裕福であったから裕福な生涯を送ると言うような国は、良くない国だ。

日本は一度は、世界第2の経済大国になったという、意識があった訳だ。それは今の中国と似ている。国家としてのGNPで見ただけの話にすぎない。一人ひとりの生活というもので言えば、今の方が豊かなのかもしれない。江戸時代の方が豊かであったのかもしれない。70年代にフランスに行ってみて、フランス社会の生活レベルの豊かさを痛感した。人口が日本の半分のフランスが、同じGNPであれば当然、一人ひとりは豊かである。さらに言えば、植民地時代に社会インフラを完成させていたと言う事がある。美術学校でも、既に歴史的建造物というようなものが整っていて、百年も使っている。中国の実態はきわめて貧しい、一部に富裕層がいるだけである。ただ広大な国土と、膨大な人口があるので、経済規模が大きいく、大消費地という事になる。そしてこの国の格差は、世界で一番となっているのだろう。能力主義の最悪な結果が起きている。それが軍事大国になる原因である。軍隊というものは、外国からの武力攻撃を想定するが、実は、国内の暴動鎮圧が主目的であろう。

働いても働いても、普通に暮らせないような人が存在する社会が良くない。生まれながらの能力差というものはある。同じ時間勉強しても、成績には順位はつく。しかし、努力する場も持てないというのでは、生まれついての差別である。私は絵を描いてみたかった。父親は大反対であった。美術学校に進むことも許されなかった。絵描きでは食べていけないという理由だった。美術学校には進まなかったが、何とか絵を描いていられる道を選択してきた。絵を描いていられるのは、地場・旬・自給を選択した事が大きい。好きな事だけをしてきたので、努力して、我慢して働いたという事はなかった。若いころ三菱の下請けエレベーターで、肉体労働をして働いた。フランスに行くためにお金を得るためだったのだが。今思い出しても楽しい日々である。あの頃覚えた作業が農業で役だっている。好きな事を見つける。そして、自分の精一杯で努力をする。能力不足で絵描きには成れなかったが、何の不満もない。

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