利潤を生みださない生き方
資本主義社会が終わりを迎えているという認識は、少しづつ経済学者の間でも言われるようになってきた。素人考えであるが、長期金利の低下に資本主義が終わる姿が表れていると思える。資本を動かすことで、利潤を得る。この利潤の予測が長期金利に表われている。長い間、3%とか、2%とかだったわけだ。家を建てるのに借りるローン金利なども、この利率に連動している。所が、この長期金利の極端な低下が起きている。お金を借りる人が減少している。資本と言うものが利潤を生みださない社会が来ていると考えていいのだろう。別にこれは悪い事ではない。資本は投資先を求めて、世界中をさまよっているが、良い投資先が見つからなくなってきている。拡大再生産する事で成り立つ資本主義社会の終焉が見えてきた。勿論利益を上げてている企業もある。大資本間にも格差が産まれている。相変わらず拡大再生産で経済規模を広げている国もある。いわゆる国際競争力に勝ち抜くと言う、アベノミクスである。
先進国ではもう新たな物はいらないという所まで来た。人間が生きると言うときに、新たな物の必要性が下がってきている。社会全体の消費は、社会保障の様な、福祉的な支出が大きなウエートを占めるようになってきている。言い換えれば過去の社会を越えた社会を創造すると言うより、現状社会の維持することに全精力を傾ける社会である。より高度な医療を求めようとして、支出は増加するとしても、こうした支出はあくまで消費的であり、拡大再生産と言う事にはならない。そうした社会の変化は、高度化された社会では当然のことであり、どのように安定した社会が作り出せるかに、社会の主眼は移ってきている。例えば、女性の社会進出と言う事が言われる。当然なことで、どのように、社会のゆがみがただされてゆけるかが、これからの社会の主目的になって行くのだろう。アベノミクスがいかに国際競争を叫んだ所で、もし日本が勝てばその分どこかの国が敗者になり、世界の不均衡が増し、大きな崩壊に一歩進むと言う事になる。
むしろ、世界の希望は資本の拡大再生産の競争を終わらせる事が出来るかに掛かっている。資本主義競争の社会の渦は、競争を降りる事を、敗北主義という烙印を押し付ける事になっている。これは50年前から少しも変わらない日本の姿である。だから、その流れを受けて個人もその競争の中で頑張るのだということになる。その意味でも、現状の社会がアベノミクスを否定することはできないのは当然のことだ。絵を描くと言う事が好きで、何かそこに生きる意味を見たとしても、社会の総意としては、売れる絵描きになり、文化勲章をもらうような絵描きになると言う事が目標になる。しかし、文化勲章は立派であるとしても、そうした絵画が、芸術としては社会の実態からは遊離してしまった現実がある。人間の暮らしから離れた所で、芸術が投機対象になり、商品化しているにすぎない。人間の生きると言う事と、経済と言うものが分離した状況。
利潤を生み出さない生き方。地場・旬・自給の思想である。自分が生きると言う事を自分の環の中で完結する生き方。それが地域と言う見える範囲で、確認できる社会。競争する事でなく、それぞれがその人として、自分を深めて行く事で認め合う事ができる社会。食糧の自給は一日1時間の労働と、100坪の土地があればできる。後は自分と言う生命の充実である。好きな事を見つけ、好きな事をどこまで深められるかである。物によって自分の命が充実すると言う事はない。むしろ生涯無一物の自覚である。地方は人が住まなくなってきている。立派な農地が放棄されている時代である。今後も人口減少は進むであろう。自分ひとりが充実して生きようと言う事であれば、何とかなる時代である。私の様なさして体力のない人間が、40歳から始めた、自給生活である。それでも何とか生き抜く事が出来た。後15年は続けたいと思っている。その自給法は、何とかこのブログに記録を残してゆきたいと思っている。運が良ければ、本にまとめる事も出来るかもしれない。