金沢にいた頃

   

山北の斜面 10号 少し写真が悪い。

水彩人の初日は、目録の印刷に追われていた。10枚、20枚と少しできた順に、受け付けに届けていた。受付で私の知り合いという方が見えていた。お会いしてその雰囲気でなんだかどこかで、会ったことがある様な気分に成った。しかし、記憶が無い。忘れていることは良くあることなのだが、どうもそれでもない。どこか印象から伝わってくるものがあった。名前を聞いて少し震えた。驚いたことに昔金沢にいた頃の仲間の、家族だったのだ。絵を見に行ってあげてと言われて、来てくれたというのだ。とっさに、絵を描いて良かったと思った。金沢の馬小屋に暮らしていた頃、ああ、今日一日、何かやってやるぞ。アートシアターギルド映画の主人公気分で起き上がる。まずメルツバウでも行ってみるか、誰かいるかもしれない。あのままに、今の毎日は続いている。理由がある訳でもないのだが、あのままやってきた。結局のところ、やってきてしまった。という方がしっくりしているかもしれない。絵を描くと言うことにへばりついている。そういうことを忘れないでいてくれる人がいる。

今日は絵を描くか。という毎日が続いて変わらない。20代金沢にいた頃のまま来てた。12年正道を進めば、才能が無くとも結論が出るだろうと、空海は書いている。その12年が、一年進んでも、また12年ということで、結局45年来た様な感じだ。それで65歳に成り、いよいよ残りが12年ということに成ってきた。先延ばしすることのできない、結論を出す12年だ。お前は自分の願った最高の自分に成れるのか。人間は人間に支えられている。倫理的な教訓としてではなく、あの出会いが無ければ、今の自分というものは全くない。そういう変えがたい出会いの積み重ねとして今を生きている。70年代の金沢には、そういう濃密な空気があった。

今は田んぼを仲間とやっている。一人でやるより面白い。人間の出会いがあるからだ。そして、色々の困難を乗り越えることができる。農家の人であれば、一人でやる方が手早いと思うことだろう。しかし、自給の田んぼは一人の田んぼより、楽しい。楽しい共同であれば、頑張ることもできる。ことしは初参加ながら、前半とても頑張ってくれた、Nさんが手首を骨折してしまった。みんなでやっている田んぼだから何の問題もなく作業は進んでいる。これが一人の農家であれば、どうにもならないことだろう。どうにもならないからご近所に頼むか、農協にお願いする。近くの親戚に頼むというのが一番普通かもしれない。いずれにしても、ご主人がけがをしてしまえば、農業としてはどうにもならないことに成る。そのまま終わりに成る農家もある。それぞれに孤立して効率の悪い業として、田んぼが行われている。昔の農村共同体は小田原では失われていると言える。

道元は、自分の修行の仲間に対して、来たるものは拒まず、去る者は追わずとした。座禅など一人でやれない訳でもない。山の中で一人でやっている人も実際にいる。しかし、修行というものは一人でやるのは良くないことだと山本素峰先生は言われた。雲水として仲間を求めて歩くのも修行。そして山門をくぐり仲間とともに座るのも修行とした。絵を描くと言うことにも、仲間が必要だ。金沢の友人たちも、心の中に実在感を持っていつも存在している。そうした今まで出会ってきた仲間がいる。そして今展覧会を一緒にやっている水彩人の仲間がいる。様々な人間と人間の出会いがあり、その支えと励ましの中で、今このように絵を描けることの出来る幸せ。絵は一人で描けるものであるが、一人では本当の絵までは行けない。どこまでも一人であったゴッホも、絵を描く共同体を求めて、ゴーギャンとの共同生活を行った。強烈な個性の2人が上手く行く訳はなかった。水彩人も同じである。上手く行く訳はない。それでもそのぎりぎりの中で切磋琢磨して行くほか、道はない。

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