石鹸、シャンプーは使わない。
瀬戸内 10号 小川和紙
石鹸、シャンプーは使わない。子供の頃から石鹸を使う習慣が無かった。こう書くとずいぶん汚い奴だと思われるだろうが、まあ清潔感が無いのは認めるしかない。しかし、お風呂好きでよく入る。日帰り温泉に行くのは相当に好きだし、家の風呂も好きだ。家の風呂もこって色々設備をしているが、あまり人には言えないようなことなので、ここでは書かない。ともかく風呂にはいらない日はない。しかも長風呂である。風呂でラジオを聞いている。身体も頭も洗わない訳ではない。洗うのだが、洗剤と言うものは使わない。洗剤を使う必要を感じないのだ。石鹸を使うということの意味が分らない。風呂屋で石鹸をタオルに付けて、身体を熱心に洗っている人がいるが、何故そんなことをしているのか、不思議でならない。子供のころから洗剤と言うものが家にはなかった。洗濯石鹸と言うものはあったのだが、それは洗濯専用の物で、身体をそれで洗うというようなことはなかった。よほど何かで汚れれば、石鹸と言うものを使うことがなかった訳ではないが、食器を洗うことでも洗剤などは使わなかった。
それが山の中のお寺の普通の暮らしだった。たぶん近所の家でも同じようなことだったのではないか。それが少し崩れたのは、おじさんにお嫁さんが来てからだった。お祖父さんは自給自足を当たり前としているような人だった。本来曹洞宗の寺院は自給自足の暮らしだと、明確に宣言していた。家族にもそういう暮らしを当然としていた。極端な節約の人だった。お坊さんだから節約は当たり前だったのだろう。本山での修業をそのまま引き継いで暮らしているような一面があった。それは立派なことだと思うが、石鹸のことのように、当時の山村の普通の家では使っていたのかどうか。そういうことが良く分らない所がある。台所にはかまどの灰と藁の束ねたものが置いてあり、それで擦って洗っていた。その洗い水は、池に流れて落ちて、そこで鯉を飼っていた。その鯉をお客さんがある時に食べる訳だ。後に修行したお寺でも同じ構造だった。飢鬼が落ちたものを拾って食べるので、洗い物はわざわざ、飢鬼の代わりに鯉に食べさせると言っていた。
洗い場の水が池に流れ込むのだから、洗剤など使う前提が無い。池で水は温められてから、下の田んぼに水が行くようになっていた。水を汚さないというのもすべての前提である。石鹸を使う習慣を持たないまま、成長した訳ではない。東京での暮らしは、いかにも消費的な暮らしだった。母は贅沢な人で、祖父の倹約の反動があったのではないかと思う。私達にも、最高の石鹸を使わせたがって、フランスからの輸入の何とかの石鹸とかいうのを使っていた。しかし、私は母の見えない所では絶対に使わなかった。石鹸を使わない方が偉い人間だと勝手に思い込んでいた。シャンプーを使う事など、罪の意識を伴うことだった。ああいうものは男が使うものだとは、毛頭考えもしなかった。45歳までは頭を坊主にしていたということもある。今は頭に髪の毛もあるのだが、シャンプーも石鹸も使わない。何かママレモンを頭にまぶすようで、不安極まりないのだ。結論としてお湯で洗うことが、十全である。
本心でいえば、その方が髪の毛の為にも、頭皮の為にもいいと考えている。身体も同じことだ。石鹸で洗えば、汚れは落ちるかもしれないが、大切なものまで落ちてしまう。人間の身体は、必要な皮膜で覆われている。お湯で洗うぐらいがちょうどいい加減だ。お寺ではお湯もいけないことだ。水で洗うだけだ。石鹸や、洗剤が普通に使われるようになったのは、コマーシャルから暮らしをイメージさせるようになってからだろう。うちの子供のウンコはブルーじゃない。と相談するおかあさんがいたそうだ。子供の頃の私が、近所の暮らしを知らなかったように、普通はよその暮らしは知らない。よそではコマーシャルの様に暮らしているらしいということで、それに合わせなければ、まずい様なことになったのだろう。だから、石鹸を使わないなどと書けば、よほど汚い人間と言うことになるが、私にしてみれば、世間では石鹸を使うことで、大切なものを洗い流している、もったいない人達だ。と考えている。