公明党の政教分離
下田夕景 10号 こうしてみるとずいぶん下田を描いているものだ。海に落ちる朝日も夕日も描けるところなどめったにない。
飯島勲内閣官房参与がアメリカに於いて、公明党と支持団体の創価学会との関係について、憲法が定める「政教分離」の原則に疑義があるという発言が行った。当然のことだ。問題は何故そういう宗教政党の疑義がある公明党と自民党が与党連立をしているのかのほうが問われるべきだ。アメリカでは創価学会をカルト集団と認定するという手段がある。これで公明党は一気に譲ることになるはずだ。恐ろしい仕組みで憲法が翻弄される。考え方が近いということなら、石原新党の方が安倍政権に明らかに近い。石原新党と連立を組んでも、選挙にマイナスだから組まないだけである。それはみんなの党も同じことである。本質的には橋下氏は安倍氏と連携している。あの海兵隊、慰安婦利用推進発言など、与党政権へのサービス発言のつもりだったのだろう。こういうもろもろの憲法に置いて、新憲法制定を目指す人たちが、一つの集団を作るべきである。自民党憲法草案は明らかに憲法改定とは言えない。新憲法制定である。つまり、現憲法下の政治体制を革命的に覆そうという意図のある、いわば右翼革命政党なのだ。現憲法下の保守政権とは言えない。
こうした思想が日本に登場したことは、戦後日本に敗戦によって潜在化していた、明治政治体制に戻りたいという、戦前の日本に戻りたいという、政治的意図なのだろう。日本は敗戦をきちっと総括しないまま、アメリカに恭順した状態できた。しかもそのアメリカの力がなければ国を維持できない。このもどかしさが、アメリカの押し付けた憲法という、もやもやした気分になっているのだろう。確かにこの憲法を与えてくれたのはアメリカの力である。そうでなければ日本はいまだに明治憲法でやっている国だった。戦争という馬鹿げたことまで行い、少しは反省して、アメリカの提案してくれた憲法を受け入れたのだ。それは、近隣諸国に対して与えた被害に対する、もう2度と戦争は致しませんという、反省を表した憲法でもある。2度と軍事力を持たない。これを約束するので許して下さいという思いが込められていたのだ。しかし、敗戦に対する深い反省をしない人には、許しがたい屈辱ということになる。
日本国憲法は、明治政府的な富国強兵思想からすれば、とんでもない弱腰な憲法ということになる。今国会で議論されている憲法論議は、近隣諸国の軍事強化に伴う、衝突の畏れの緊迫が議論されている。世界情勢の緊張下に、今の個別的自衛権では対応できない。アメリカとの同盟強化が必要だという、現実論の強調である。しかし、この現実論は日本側からも発信した緊張である。富国強兵には、国家意識の強調が必要になる。石原氏は昔から、尖閣に基地を作れというようなことを主張していた。これは竹島に軍隊を常駐させている韓国の姿である。何故国家は領土というものにこだわるのか。このことを考えてゆくと、領土の後ろにある、国威発揚という意識が現われてくる。国が広い方が、嬉しい。こういう意識は乗り越えるべきではないだろうか。島も海も資源も、人類共通のものなのだから、管理をお任せるぐらいの気持ちに成れないものだろうか。東京都のものでも、神奈川県のものでも同じだろうという気持ちだ。
政教分離のことであった。公明党よ、池田大作氏の言い成りになるな。もし、そういうことなら、政教分離の憲法違反を突き浸けることになるぞ。こういう意味なのだろう。安倍氏のいらだちを飯島氏が代弁したのであろう。今回の憲法解釈論では公明党は理路整然としている。現状では宗教政党というより、法律論政党のようだ。あまりにまともなことを主張するので、自民党は困っている。いよいよ、痛いところをついてきたということだろう。これは、公明党支持者への警告である。オオムのような扱いになっていいのかという脅しの意味なのだろう。私は、公明党の政教分離問題はまさに憲法解釈の問題である。それは翻って、安倍氏の熱心な靖国参拝問題にも波及しなければおかしい。両方ともよしてほしいというのが私の気持ちである。政治家は李下に冠を正さずであり、わずかな疑いも避けることが権力に在る者の姿勢でなければならない。公明党は、自民党になればいいのである。立正佼成会の様な支持団体に成った方が分りやすい。