絵画は平面なのか。
田子港 10号 港湾の工事材料の積み下ろしなのだろう。面白い舟の形で描きたくなった。
水彩人の下田の研究会で、松田さんは盛んに絵画は平面だという事を言われていた。平面の意味を考えてみた。松田さんは同時に、絵画は哲学だということも、頻繁に言われる。たぶん松田さんの中ではこのことは同じことを意味しているらしい。ずいぶん飛躍した言い方だが、絵を描く人の考え方は、こういう言葉になって飛び出てくる。だから、松田さんの絵に戻って、この言葉を考えてみないことには、意味不明の言葉になってしまう。そもそも松田さんが言われるには、松田さんの絵は、姉様描きに始まるそうだ。この姉様描きがどんなことを意味するのか、これも良く分らない言葉だが、どうも姉様人形のようなイラストではなかろうか。姉様人形とは、縮れた和紙で作られた平面的な人形で、おままごとなどに使われたものだ。この顔の描き方が、線描でイラスト風である。ここから来たファッションイラストの中原淳一風のものではないかと想像している。
実際の人間を見て人間を描くということは、慣れていない人には難しい。どうしても現実に存在している物の重みがあり、純粋に映像として物を見ることはできない。ところが図像として描かれたものを、写すのであれば、子供でもへのへのもへ字を書けば、人の顔になる。図を頭で理解して、図として描く簡単さがある。つまり、絵画は平面だという言葉の裏にある意味は、一度イメージ化されたものを通して、絵画を考えているということではないだろうか。松田さんは長年資料集めを熱心にしてきた。極端にいえば、本当の絵より、パンフレットの方が絵が分ると言って、入り口でパンフレットだけ買うということもあると言うほどである。絵のなかにある情報だけの方が、絵に現われている細かな調子にごまかされないという意味があるようだ。日本の多く絵描きが、西洋絵画の図録の白黒写真で絵を学んだような意味でもある。この絵にある情報というものが、絵画は哲学だという言い方にもなるような気がする。
確かにこの考え方は一面的ではあるが、本質に近づくには一つのやり方ではあるだろう。日本の絵画の伝統はまさに、こうした図から図が学ばれてきたものだ。書写というように、図画の基本として絵を写すことを勉強としてきた。こうしていわば図録から学んだ要点の情報というものは、誰かが平面に咀嚼したものである。そして意味だけが浮かび上がってくる。現実の複雑で分りずらい空間というものを飛び越えることにもなる。ところが、現実を写生をするということになると、見ているものをどう絵にするかという情報処理が必要になる。大いに違ってくる。自分の考え方を離れて、圧倒するように現実の存在がある。そこで、現実と戦うような絵もあれば、現実を自分流に捻じ曲げて解釈するものも出てくる。そして、自分というものを捨てて、写真のように写す技術の在り方を絵画と考える場合もある。見えている現実というものは、千変万化であるから、ある一面を切り取るということになる。
絵画が自己表現であるというのは、近代絵画の獲得した価値である。松田さんのいう、絵画は哲学だという考え方もここから出ているのだろう。絵画は平面だということは、抽象画の多くはその考えに基づいている。イメージを画面の上で、展開して絵画とする。現実の現象とは関係しない絵画である。その抽象的イメージを形成しているものが、作者の哲学という事に成りやすい。だから、松田さんをふくめ半具象の絵は、抽象画にどちらかと言えば近い気がする。私の場合は、あくまで写生である。現実の説明を絵で行っている。だから平面という意識もないし、空間という意識もない。画面という眼前の世界の中で、動勢を見ている。ムーブマンである。現実世界にあるムーブマンをどのように見るかということが中心になる。ムーブマンというものは、見えているものではないのだから、写真には写らない。そのムーブマンをとらえる、ものの見え方が絵画に反映するということになる。