集団的自衛権は戦争への道
伊豆海岸 10号 どの入江にも集落がある。この集落や畑の様子が自然との景観を産み出し、魅力あるものになっている。
集団的自衛権の解釈を変えることは、アメリカの行う戦争に日本が巻き込まれることに、必ずなる。アメリカの正義がいかに不安定なものであるかは、中東や、イスラエルの関係を見た場合、即座に分かる。アメリカが世界に於いて、相対的に力を失い始めている。中国の台頭は、ソビエトとの冷戦時代以上にアメリカの不安定化を生んでいる。イデオロギーの対立というより、手ごわい経済競争の成り行きである。経済は、両国の競争と協調を背景にして、世界の力関係を変え始めている。この世界の対立に、日本を利用したいというアメリカの考えと、アメリカに依存しながら中国に対抗しようという、日本の考え方もある。平和主義、基本的人権の尊重、国民主権の日本国憲法の、3本の柱は、憲法の改定なくして変えられないものだ。石原氏は対立を先鋭化して、日本国憲法を変えようと考えたのだ。この時代を読めない戦略が、日本を困難な立場に追い込んだ。外圧を作り出し、軍事的不安感を煽る。そして軍隊を持てる国家になる。
日本出身のグローバル企業は世界にその活動を広げている。そうした海外での日本企業の安全の確保も、深刻さが増しているのだろう。日本の防衛能力を越えて、日本発のグローバル企業の活動が広がっている。リスク覚悟で、紛争地域に進出する。これを日本政府は保護しなくてはならないと考えている。はたしてそんなことが出来るのだろうか。又その必要はあるのだろうか。世界の警察のようなことは、日本の能力を越えている。基本的には日本は憲法9条に従い、国際紛争の解決には平和的な手段での対応する、という姿勢を貫くことしかない。日本が、軍事力を持って対応するより、日本がアメリカに加担しない、軍事的な野心を持たない、覇権主義ではないという姿勢を貫くことも、日本出身の企業の安全確保の一つのやり方のはずだ。どういう方法をとったとしても、世界に進出する以上、テロや暴徒のリスクは、必ずあるとして進出企業の責任の範囲で対応してもらうしかない。
それでもどうしても、集団的自衛権を見直すならば、憲法の改定が必要である。軍事力の放棄の意味は、憲法の根幹をなしている。確かに、日本国憲法が空想的な理想主義であるという意見もある。しかし、現実にこの憲法が歯止めになって、日本の再軍備に抑制がかかってきたことも事実である。また、日本が覇権主義に戻らない、平和主義の国としての宣言をすることによって、侵略によって迷惑をかけた国々に対し、謝罪と安心を得て来たのだ。平和主義を取り除くということになれば、近隣諸国は又日本が軍事的野心の国になるのではないかと、不安による対抗心を高めるのは、当然のことである。だから、今東アジアで起きている軍事的な対立の影は、日本に主たる原因がある。本来であれば、北朝鮮の核武装が一番の深刻事態であるにもかかわらず、6カ国会議すら開けない状況にいったっている。この困難な国際情勢の中で、憲法改定の議論なく、内閣や法制局の判断だけで、憲法の根幹の解釈を変更するということは、あってはならないことである。
軍事力を持って、日本を守るべきだという意見も当然ある。しかし、憲法の解釈論の変更の範囲で、集団的自衛を理由に、武力主義に代われば、すぐにでも戦争に参加することになる。日本の平和外交戦略に主体性がなくなる。平和外交という道は、実際には行われたことがない。政府がその努力をしていない、あるいはそんな道はないと居直っている。まず、憲法に従い、平和的な努力というものがどういうものか、徹底して進めてみることだ。国際災害救助隊の設立など是非やってもらいたい。どの方法にも、完全ということなどあり得ない。平和主義は、空想にすぎないと決めつけているのは、憲法を無視していることになる。国連も全く機能しない。それなら、中国韓国といかに仲良くするかを考えてみるのも、一つの、国家の安全確保ではないだろうか。尖閣、竹島、北方領土。本当の国益を考えて、共通に国際司法裁判所にゆだねたらどうだろうか。