日本のグランドデザイン
舟原の紅葉 10号 季節はずれな絵だが、季節に関係なく描き続けている。もちろん描きだしたのは、現場のその季節だ。なかなかできなくて、何年もかかって何かの折に一歩進む。この一歩進む理由も良く分らないのだが、欠点を無くすというようなことはしないようにしている。絵が出来るということの意味は、今のところよく分らない。又改めてこの絵を見て、描き継ぐことになるのだろう。
2050年には日本の人口は1億人を割り込み、約9700万人に
(人口が1億人を超えたのは1967年)
・人口の地域的偏在が加速
(約6割の地域で人口が半減以下、うち1/3(約2割)の地域は人が住
まなくなる)
2050年の国土のグランドデザインを国土交通省が発表した。深刻な老齢化の進行と人口減少の傾向から、放棄される地域が広がる。無人地帯が、12%の広がると予測している。たぶんその倍は無人地帯が広がると思わなくてはならないだろう。無人でないところも、極端な過疎地域が広がる。現在の都市部は減少せず、むしろ増加する可能性もある。21世紀の人間の嗜好は、都市的にいよいよなるだろうと思うからだ。無人地帯が広がるという予測は、やっと政府も認めたというところである。そういう状況を踏まえて、日本という国土をどのように構想するかである。現代の防人論も出ているが、正直国境地帯の帰属のあいまいな離島どころではない深刻さがここにはある。長い間人間が暮らしてきて、今後も十分暮らせる地域が、放棄されるのである。今後無人地帯に成るだろうという、多くの地域では、現状では、かろうじて農業を続けている人達がいる。棚田とか、里山とか、昔懐かしい日本の山村は、このままでは、後3,40年でなくなると思わなくてはならない。
私の描いている絵など、なんだか消えゆく日本の原風景を記録している、等ということに成りかねない。国土交通省の分析であるから、農業のグランドデザインが十分でないことは仕方がないが、残念ながら、見通しになるような発想はない。過疎の地方を志向する若者が想定されているが、地方から、都市を志向する若者の増加である。どうすれば地方を志向する若者が出てくると考えているのだろうか。国の考えなくてはならないグランドデザインは、経済性のない地域をどのような論理で、生活可能な地域として維持できるかである。いかなる時代でも、大勢とは違う生き方を求める人は存在するはずだ。3%程度の人は、都市以外の地域で暮らしたいと考えるはずである。これから、急速に増えてゆく過疎地域に、この300万人がどうすみついていけるかを考えるしかない。これは経済的にいえば、国民全体の負担にしかならない。国民の合意がなければ、過疎地域は無地かをして、国土の崩壊は進む。
過去の日本人が経済を越えて、祖先から引き継いだ土地、子孫に引き渡す土地として、守り育ててきた国土の意味を考える必要がある。つまらない国境の島の帰属のことでいきり立ちながら、何故人間が何千年も住んできた、又永遠に暮らしてゆける豊かな土地を崩壊させるような暮らしを続けているのかである。このままでは日本人は日本人でなくなる。日本人が日本人に成ったことの大きな力は、この国土の豊かさによる事だけは、間違いがない。日本人の生き方は、競争ではなく、自分の暮らしを自分で完結させる文化を作り上げた。人様に迷惑をかけないで生きかた。この生き方は、人類の永続性の可能性を感じさせるものだ。欧米人の作った機械文明の、資本主義の競争が、人類の滅亡を予感さている。世界の人が、必ずもう一度、本当の暮らしを振り返る時が来るはずである。その時にどんな生き方があるかと言えば、日本人がこの国土に作り上げた、自己完結できる豊かな暮らしである。現代の技術革新を取り入れれば、日本という国土の中で、充分豊かな暮らしが作れるはずである。
まず、地域指定をする。地方の過疎化して行く地域の中で残すべき地域を決める。開発的行為を一切禁止する地域。国立公園地域のように、自給的、循環型生活地域指定をする。ありのままの自然を受け入れ、手入れをしながら暮らしを織り込んでゆく。江戸時代に培った生活術と、現代の先端的な自然を大きく改変しなぎ技術とを、融合して人が暮らしてゆく。自然を含め残すべき形に沿った、最低限のインフラを維持して行く。例えば教育など、通信教育の充実をはかり、高度な教育が、過疎地でも可能な形を作る。医療でいえば、緊急医療の配置と、通信医療をネットワーク化する。自然と折り合いをつける暮らしを望む人たちが、地域の維持という役割をになう。都市に暮らす人たちは、そういう過疎地域を維持する価値を理解してもらい、税金の投入を認める。経済競争には、名にも役立たないような過疎地の暮らしが、必ず世界から評価され、日本の価値を高めるはずである。