水彩画教室 4
庭の眺め 12号 家の廻りを良く描く。自分で整備した場所だから、良く分っている。絵を描くつもりで直した場所もある。
前回の水彩画教室3で書いたことを、もう一度考えてみる。絵を描くのに、その近道を考えるのは悪いことである。遠回りが良いに決まっている。絵の道は到達点の見えない道だからである。日本では美術学校にまで入学競争があるから、要領良く上手くなれる方法など、考えてしまう。絵に至る道まで、詰め込みの受験勉強まがいの要領があると考える。とんでもない考え違いで、そんな絵に対する考えで絵に接していれば、人間自体をダメにしてしまうだろう。もちろん、そういう完成形のあるタイプの絵が無い訳ではない。水彩画でいえば、オオルドイングリッシュスタイルというか、アメリカン水彩とでもいうものだ。こういうスタイル画は様式を身につけて、その様式で描けば済む。そういう世界にも、上手さのレベルはあるが、本来の芸術としての絵画表現とは別の世界のことだ。しかし、良くないことと承知で、マイナス承知で、絵のコツをまとめてみる。自分の中で絵を描くコツでどのくらい絵を描いているのかを、確認しておく方がいいかと思ってのことだ。
水彩画を描いていて気付くことがある。これを思い出して書き留めている。自分の絵のダメさを気付くことが、なかなか出来ないことが、一番厄介なことだ。他人の絵で簡単に分ることが、何故か自分の絵ではわからない。絵を描いているときは、良くしようとか、自分らしくしようと、たぶんしている。ある意味そのやり方に溺れている。それはダメである理由が、自分の人間から生じているからではないか。自分を認識することは難しい。ダメなんてない。と同時に、ダメなものはダメなものである。生きるということは豊かということや、深くということである。豊かに生きるために絵が役立っているのかの方が重要。私絵画の場合は、自分の世界というものにとことん入り込もうということだから、描いたものが自分らしくないということは致命的なことだ。自分を探していることが、絵を描いているということでもある。より豊かに生きて、より深く生きて、それが現われたものとして絵があればと思う。
絵を描き始める時には、描きたくなる何か対象が存在する。頭のなかにあることもあれば、目の前にあることもある。それを画面の中に作り出そうと、たどり始めるのだが、その時に辿ろうとする先が見えなければ、始めないし、始まらない。何を描くのかということなのだが、絵を描くときの「何を」は、富士山とか、酒匂川河口とか、具体的な何かということではない。富士山を描いて、その絵では何を表現しようとするかということになる。ここのところが肝心で、又難しい。一言でいってしまうとごまかしになるのだが、世界観とか、哲学ということになってしまう。これは分析しているようで実は、曖昧にしているだけだ。自分の中にある何かであることは確かである。自分が感動している世界というのが近いだろう。感動に引きつけられているという場合もある。対象に反応している自分の何かを見つめ直している。言い方を変えればこの何かを確認しようとして、絵を描くという実態かもしれないが、これもまた曖昧ないい方だ。
画体をもつということがある。文体のようなものである。自分の絵の方法を持ってその描き方で、自分の世界を展開する。今のところ私にはそれはない。もう何年かしたら画体を持ことを考る。それは頭の中での思考方法ということなのだろう。現状では具体的に展開するべき内容を把握できている気がしないので、画体を持つことは、危険だと思う。梅原流、中川一政流、鈴木信太郎流、マチス流、ボナール流、それぞれの画体があり、それが自分を語る上の語り口として、実にうまく作用している。ただし、これが癖のようなものであったり、借りてきたものであれば、ちゃちなまねごとに成り、絵を深める障害になるのだろう。それよりは、方法論は持たない方がまだいいと考えている。自分の世界観が確立されて初めて、自分の画体が生まれるのであって、無理やり画体を作ろうとすると、それは借り物の絵空事に成り、画格が伴わないものに成る。