細野豪志の靖国論
黒姫山 10号 空と山の関係。空は描いている自分の上まで続いていて、山の向こうにもある。
その空間というものと、絵画の色の関係としての平面性のこと。画面がテレビの画面のようになってはならない。
細野氏がブログで靖国論を書いている。こういう文章を読ませてもらうと、ブログの意味と価値が分る。まず、安倍総理の靖国参拝を批判している。その根拠を「安倍総理の中には、この戦争責任を正面から認めたくないという思いがあるのではないかと、私は感じています。それは、東京裁判そのもの、そしてサンフランシスコ平和条約から始まった戦後の国際秩序を否定することにつながります。中韓はもちろん、米国も含めた多くの国が総理の今回の判断に疑問を呈しているのは、「戦後レジームからの脱却」を唱えてきた安倍総理のこれまでの言動に対して、戦後の国際秩序に挑戦しているのではないかとの疑問を持っているからだと考えます。」としている。このように批判については、真っ当だと思う。ただ自らの靖国論となると、何を意味しているのかが分らない。この人の論理性の問題なのか、口淀まざる得ない政治家の判断なのか。肝心の所が疑問である。
「明治以降のわが国の歴史的な経緯から見て、靖国神社は英霊の慰霊の場としてふさわしいところです。新たな追悼施設をつくるという議論がありますが、靖国神社に代わる場にはなりえませんので私は反対です。戦争遺族を持つ私は、靖国神社に個人として行きます。ただ、静かに参拝できる時期を選び、戦争責任者とは区別して、国のために命を落とした人々に手を合わせることにしています。」これがどうも細野氏の具体的行動のようだ。どこが安倍総理と違うのかである。明治以降の歴史的経緯の認識に疑問がある。明治帝国主義が靖国神社を作り、戦死者を英霊として祭ってきたのが靖国神社である。この明治帝国主義が第2次世界大戦に繋がり、日本の敗戦に至ったのだ。明治帝国主義を肯定するところに、靖国神社がある。日本が西欧の列強に対し、対抗するために富国強兵をせざる得なかったということはある。しかし、そのことを止む得ないとすることは許されるとしても、軍国日本を肯定してしまうことに繋がるのでよほど注意が必要である。
靖国神社を太平洋戦争における戦死者の慰霊の場として認めながら、戦没者全体とは同列に扱わないということは、政府が行う慰霊の場として矛盾している。しかも、政府が戦没者霊園に、神社を指定するというのは、政教分離から問題がある。原爆や空襲で死んだ人も慰霊するのが、国としての役割のはずである。どちらが尊い死であるとは言えない。もちろん戦死者や公務による死者を祭る場があっていけない訳ではない。その時に神道という宗教施設に納めることをふさわしいとすることは、不自然である。キリスト教徒や仏教の僧侶であっても靖国の英霊になるということは、宗教上許されない側面がある。これがもし、イスラム教徒であれば、国際問題化するような内容ではないか。国が行った戦争の為に亡くなられた人たちを特別に祭りたいとする気持ちは、大切にするべきだ。その大切にするための道筋を正確に作ることが必要な状況に、今日本は置かれている。
安倍氏の参拝を否定しながら、細野氏自身の参拝は私的なものとは出来ない。海外から見れば、明治の富国強兵の精神まで、復活させるという思想を感じてしまうのだ。だから、あらゆる人が慰霊の為に何のこだわりもなく、参拝できる施設を国が作ることが大切なのだ。靖国出会いましょうと言って死んだ人がいると、いう議論がある。A級戦犯をまず靖国から分霊すればいい。A級戦犯の人は、靖国出会いましょうなど言わなかった。国の為に亡くなられた御魂が、日本の国際的関係の為に、その程度の理解が出来ないはずがない。靖国の問題を語るときに遺族の問題がいわれる。細野氏も遺族としてということを言われる。祖先の墓はあるのだからそこにお参りすればいいのだ。靖国は軍人としての立場が祭られている。靖国に参拝するということは、軍人を参拝するということになる。未来のある民主党の若い代議士がこれなのだから、民主党には期待が出来ない。