里芋の水田栽培
牟礼のリンゴ畑 10号。リンゴが実る頃、何度か長野に描きに行った。リンゴの成る姿はとても魅力がある。春日部先生と最後に写生旅行にいったのも牟礼だった。あのときには肺気腫がもうかなり重度であった。それでも、たばこを吸いながら絵を描いていた。
里芋の水田栽培で収量が2倍から3倍になるということが、鹿児島大の岩井純夫教授(園芸学)の発表があった。鹿児島大学には昔は暖地農業の学科があった。高校生の頃に熱帯の農業という名前にあこがれを持った。農学部には当時も興味があったようだ。里芋は南方では主食である。タロイモと呼ばれる。広くいえば里芋はタロイモの一種である。中国のスーパーでは様々な里芋が売られていた。里の芋と呼ぶところが、山芋との関係である。そもそも縄文時代から、山芋は普通に食べられていたはずだ。人間の暮らしと芋の関係は歴史が深い。南の地方からタロイモを携えた人がやってきたのだろう。お米が来る前の時代のことだ。沖縄では沖縄芋という水田栽培の里芋が古くから作られている。焼き畑などで、タロイモを作るということは、ニューギニアの高地でも行われていると、子供の頃本田勝一の新聞の連載で読んだ。行ってみたいものだと胸高鳴らせたものだ。私の自給自足の夢は、あの頃植え付けられたのかもしれない。
里芋は作りやすいということが、一番の特徴である。有機農業を始めてやる人は、先ず里芋からやるといいと言われるほどだ。水分があり、日当たりさえ良ければ、植えて置けば何もしないでも出来る。毎年、そのままにしておいても再生してくる。本当に強い作物である。タロイモにも様々な品種があるようで、でんぷんを取る品種もある。毒性があるとか、アクが強いとか、何か理由があるのだろう。日本にはいったのは、縄文時代ではないかと思う。間違いなくお米より前のことだ。しかし、タロイモは日本人の主食には成らなかった。それは、日本が里芋の北限であるからだ。フィリピンあたりであれば、一年中生産できる。ところが日本では、夏作に限られる。保存性も良くないから、主食には成りえなかったのだ。しかし、里の芋として大切に食べられてきた。お祝い事には必ず使われる芋である。中国ではお月見は里芋のお祭りとされている。日本でも15夜のお月見には必ず里芋が供えられる。古くは、米粉の団子ではなく、里芋をつぶして作ったお団子が飾られたと想像している。
水がある方が里芋が良く出来るというのは、鹿児島大学の研究を待つまでもなく、百姓なら誰でもいうことである。「里芋は、お日さんと水だ。」と言われる。桑原のメダカの沖津さんは、たけのこイモを上手に作られる。その子芋をたくさんもらい、私も作っている。これがまた味が良い。私はタケノコいもの子芋が一番好きなのだが、人によって好みが違う。最近はセレベスが好きだという人が多い。たぶんフィリピンの里芋品種なのだろう。私が子芋好きなのは、子供の頃のおやつだったからだと思う。庭にムシロを敷いて、子芋を蒸かして食べる。ただ塩を付けて食べるのだが、こんなにおいしいものはないと思っていた。親芋を煮て食べてもさして好きではなかったのだ。イズルが好きだからと言って、わざわざ里芋を作ってくれていた、お婆さんの味だ。しかし、向昌院は石だらけの、あまり水気のない土地で、里芋は作りにくいところだった。ところがそういう場所の方が美味しいのだと言っていた。果たして水田の里芋の味はどうだろう。
欠ノ上では岩本さんが、柿の木の下に里芋を作ってくれた。ここはいつも湿った土地である。柿の木の下の日陰なのに、葉を延ばすと人間の背丈より大きくなったから、2メートルはあったのではないか。像の耳と呼ばれる理由も分る。サツマイモも、トウモロコシも良く出来なかった。水気で里芋に向いているといういことは確かだ。昔は田んぼだった場所だから、水がどうしても入ってしまう。柿の木には良くない場所だと思うが、里芋にはいい。光が足りなくても、水があればよく出来るという作物のようだ。もう一つありがたいのは、草負けしないということだ。大抵の草と競争しても勝つ。叢生栽培が出来る。今年は、何種類かの里芋を植えて、味比べをしてみたいと思う。冬の間に、鶏フン堆肥を蒔いて、耕しておきたい。暖かくなって、田んぼの頃にもう一度やれば、良い畑になるはずだ。