水彩画教室

   

黒姫山 10号大 ファブリアーノ 色彩が美しい。何故美しいと感じるのだろう。それが不思議だ。

絵を描いてみたいと思う人はいるだろう。良い趣味として絵でも始めたいという人が、今の時代の主流だと思う。そういう時にカルチャーセンターとか、公民館で行われている絵画教室に行くことになる。そういう場所で水彩画を教えている友人が多数いる。絵を描いているのだが、生計の為に教えているのだと思う。しかし、それぞれに自分の絵を真剣に探求している訳だから、指導する水彩画というものも、一人ひとり違うものだと思う。マチスも絵を教えたことがあった。生徒の絵を見て、全く見込みが無いということが分かったのだそうだ。そのことを伝えられなかったので、絵の指導をすぐ辞めたそうだ。絵の指導をマチスが辞めたのは正解だと思う。こういう考えの人は人に教えるということはできない。絵には、上手い下手もなければ、良い悪いもないと今は考えている。じゃあ、毎日何をしているのかということになる。参考にはならないと思うが、今やっていることを描いてみる。

「少し良くなったか。何故かまたダメになった。面白くなり始めた。、あるいはこれじゃない、でもなにかありそう。」と続けている。まず、田んぼで草取りしている時でも良い。涼しい風が吹いてきて顔を上げる。一面の緑が、さざ波を立てる。このうねりを描いてみたいという気持ちが、舞い降りる。そしてそのことは忘れてしまう。犬の散歩をしている。毎日家の周辺を歩くのだが、同じ景色が、光の入り具合でまるで違うように見える。雨が降れば濡れ色になる。霧が流れれば、幽玄の入り口。雪が降れば色が消える。新緑の頃の梢の色の甘さは耐え難いほどの美しさがある。ある時、強く惹かれる空間にである。空間というのは曖昧ないい方だが、力がみなぎり輝くような構造を感じる。これを描いてみようと始まる。それは海のこともあれば、空のこともある。山のこともあれば、田んぼのこともある。何故反応してしまうのかは分からないが、見ている対象もあるが、むしろ自分の中に何かが溜まってきて、爆発する感じだ。

そして描き始めるが、一向にこの力の姿をとらえることが出来ない。出来ないから、私の知っている絵という枠で一応抑えている、ような画面になる。ボナールやら、マチスやら、モネやら、鈴木信太郎やら、梅原龍三郎やら、中川一政やら、が出てくる。そういうものを絵だと考えているからだろう。しかし、自分が今見ている気韻生動のあふれたものとは隔たりが決定的である。絵の方は治まって、躍動していない。たまにある程度いけたかと思う時もない訳ではないが、もう一度見てみると、やはりいけない。それを部屋の見えるところに於いておく。偶然その絵を見かけた時にこういうことかと気付くことがある。あるいはその風景に又出会ったときに、気付くことがある。それで又始める。何か、手を入れたことで、画面が生きてくる感じの時がある。これかと思って続ける。

こういう時にあのさざ波の田んぼ、鍬を入れた畑の土の感触。こういうものが頭の中を駆け巡り、画面の変化を促す。何を追っているのかは分からないが、見た具体の記憶にある生動が、画面に現われてきそうな感じを追い求める。この時ありとあらゆる手法が必要となる。過去の自分の技術を突破するような、新たな手法を見つけ出すほかない。つまり過去の方法や、やり口にはまるのは、良い結果にならないことも分っている。前よりは増しになったと思う時もある。ダメにしたと思うこともある。絵は又見えるところに置いておく。次に呼ばれるのを待つ。この繰り返しをしている絵が、実は500枚ほどある。大きな保存ダンス4つにしまってある。時々取りだし、又見えるところに出しておく絵もある。さらにまた風景に捉えられ描きに行くので、これが増えてゆく。何かの機会が無い限り、終わりということにはならない。出来る限り正確ににやっていることを、辿ってみた。これが私の水彩画教室通いである。

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