富士山を描く

   

山梨で生まれたこともあり、富士山は目に焼き付いている。御坂山塊の奥に富士山がある姿だ。今は小田原に暮らして、箱根の向こうにある富士を毎日目にしている。西伊豆からの海越しの富士も良く描く。富士を描いていつも思うことは、富士が雲の上にあることだ。実に高いところに富士はある。他の山は、暮らしの延長にある、いわば里山の続きなのだが。富士山だけは、暮らしとは隔絶した山で、別格な山とみるほかない。その点が描きたくなるし、難しくなるのだろう。日本画では富士はずいぶん秀麗に描かれている。しかし、私の感じている富士とは異次元のものだ。なんであんなにきれいな山になるのか不思議でならない。人間の神聖であれば、私には美しい図柄模様では治まらない。その点梅原の富士には惹かれるものがある。梅原の息遣いが、神聖なる富士山にまで及んでいる。富士山に負けない人間の大きさを感じる。富士山を自分の世界のものとして描いている。私には到底できない、これはすごいことだ。

絵画である以上、自分の人格の延長が、富士山に続いていなければ面白くない。テレビで芸術家を名乗る人が、重機のアームの間から見える富士を描いていた。一工夫して面白そうだが、絵というものはあまり面白くては、それだけのことになってしまう。面白いという要素によって、一番見せてもらいたい作者の富士が見えているのかのかどうかが、抜け落ちてゆく。結局は富士山であっても、正対して描くことしか道はない。自分の神聖が、富士から及んでいるのかが問われているのだろう。私にとっては、日本人としての伊勢神宮や、僧侶としての永平寺より、富士山が神聖である。富士山の神聖が多分に文学的である訳だ。そこを文学でない絵として富士をとらえるということがおもしろい。生の生活から連なる神聖が、富士に込められるているということになるかどうか。このあたりが富士を描く面白さである。

富士の絵はつまり、日本人の私にとっては他の風景とは全く別物ということになる。それは、「イコン」のようなものなのではないか。富士山の絵は、日本のイコン画だと思い至った。誰でも思い浮かべる風呂屋の富士山の絵はその好例である。富士山を見て、のんびり心を癒しなさい。こういう決まりごとになっているのだ。イコンの前で裸でくつろいでいる姿こそ日本人らしい形だ。日本教のイコン富士。御殿場の日帰り温泉に、まさに大きな窓に、風呂屋の看板そっくりに富士山が見える「富士八景の湯」というところがある。この風呂はとても良いのだが、実に疲れる。風呂にいる間中富士山の絵を描いていた。いや富士山を見て、絵を描く目がそう反応してしまうのだ。風呂屋では、実物より絵の方がいい。ロシアの聖母子像のイコンでもおなじで、絵だからいいのだろう。日本ではあの姿が富士山になると思えば、考えやすいのではなないだろうか。

マチスが、キリスト教会のステンドグラスを描いたというので、ピカソはマチスも堕落したか。と言ったそうだ。しかし、マチスの教会はマチスの思想そのものであり、教会でもある。野獣ピカソは人間の本能にのめり込んで描いたが、神聖という意味とは遠かったのだろう。マチスにとって教会という空間は、宗教的世界でありながら、自分の哲学の空間なのだと思う。これが芸術の一つの形なのだと思う。そんな風に富士が私に描けるのかどうか。もちろんマチスという訳にはいかないのだが。笹村流の富士はいつかは描きたい。手前の方に人間の暮らしがあり、そして里山があり、奥に富士山がそびえている姿だ。何故かそういうところに暮らすようになる。富士山に呼ばれているような気がしないでもない。正月に飾る、高砂掛け軸というのがある。めでたい物と翁と媼の姿である。あそこに神聖が宿らないのは、富士山が無いからに違いない。

 - 水彩画