自給農の展望
自給農業は社会の変化に影響されることの少ない分野なので、100年先でもやろうと思えばやれる状況は在ると考えている。日本農業は企業的農業と、自給的農業に二分するのだろう。自給的農業は政府の補助金など期待しない農業であるから、条件がどれほど厳しくなるとしても、やりたいという意思があれば、可能な状況は存在するだろう。私が鶏を飼い、卵を販売するということも、企業養鶏から見れば、ばかばかしいほど生産性が低い訳だが、ある意味国際競争力のある日本一の卵だという自負がある。それは、稲作でも同じで農の会の田んぼでは、大半がハザ掛けで、天日干しをしている。美味しいからである。しかし忙しい農家の人では、こういうことはできない。自給の農産物は商品を越えたもので、人間の本来の暮らしを背景としたものだ。どちらのお米が国際競争力があるのかは、歴史の経過を見なければわかりやしない。自給農業であれば、自給養鶏であれば、最も質の高い、納得のゆく食料を得ることが出来るということだろう。
残念ながら、社会は当面格差が広がると考えなければならないだろう。日本にも数パーセントの富裕層が生まれ、貧困層が広がると思われる。そうした社会の果てには、大きな行き詰まりと、破綻が待っていると思わなくてはならない。将来の社会はかなり厳しそうだ。又厳しいからこそ、自給農業でもやろうかという層も増加するだろう。そうした中で、どう自給農業を行うものたちが連携を取るかが、鍵になるような気がする。経済的に苦しいから、他人のことどころではないというのは普通のことである。そういう苦しい中で、どのように連携、連帯が作り出せるかである。自給の立場を考えると、社会では目ざわりと言われる場合もままあるだろう。自給農を行う人間は、他人や、社会への依存度が低く、自立している。その分扱いにくい存在ということがある。自給農をやるような人間を、追い出そうとする可能性もないともいえない。その意味でも、自給農自身の連帯を作り出す必要がある。
世界の企業勤労者に対する、ギャラップ社のアンケート調査では、勤労者の18%くらいしか、労働に満足をしていないということらしい。現代のグローバル企業の世界では、働くということに喜びを感じ、やりがいを感じている人が、どんどん減っているということだろう。これは企業内部でも格差が広がっているということを表しているのではないか。仕事というものに、勝者と敗者が存在するような社会に、ますますなってゆくのだろう。私は画家になろうと努力した時期が長い。絵を描いてそれを売って暮らそうとした。しかし、それは実現できなかった。商品としての絵画を描く能力が足りなかったからだろう。しかし、絵を描きたいという強い気持ちには、今も昔も変わりはない。暮らせるほど売れないとしても、絵を描きながら生きて行ける道を模索してきた。そして今は、絵を描きたいだけ描いていられる状況を確立できた。自給農のおかげである。
自給農も同じではないか。農業者として農産物を販売して暮らしてゆこうとすれば、国際競争力まで必要とされる。自分が食べる分さえあれば、後は好きに生きてゆこうという自給農業なら、自分流で十分である。一日、1時間、100坪の土地。これで人間は自給できる。週一日農作業をすれば、自給は出来るということだ。嘘だと思う人は、笹村農鶏園を見て確認してもらえばいい。しかし、これには自然に順応する技術が必要である。でたらめにやっていれば、時間がどれだけあっても足りない。明日の、そして1週間の天候が分からなければ、簡単に数倍の時間が必要になる。自然を観察し、それに従い、織り込んでゆく技術を、伝え育ててゆく必要がある。そのためには自給技術の伝承。これは本来親から子へ、あるいは地域の優れた人から教わることが可能なような技術だ。自給農の間で、技術の伝承を作り出す必要がある。そのためにも、自給農の連帯である。