美しさの認識の仕方
私が描いている水彩画は、美しいという感じ方と深くつながっている。現代美術においては、「美くしい」という感じ方と、芸術的意図は別のようだ。しかし、私が描くものは、美という概念と切り離すことはできない。それは美術という日本的な、古来よりの人間共通の感覚として、極めて素朴な意味で、そうである。実は最近そう思うようになったことで、絵画と美術と芸術というものの意味とその関係を何十年も考えあぐねてきたが、結局のところ、私にとっては美は重要な意味を持つもののということが、今の結論である。では、ここで言う美とは何か。まずこれを定義しなければ意味不明だろう。美という意味は、簡単に言えば、美しいということであるが、何故美しいと感じるのかである。安心できるとか。豊かであるとかにつながっている。ある空間を見て打たれるということがある。没入に入り込んでしまい。その意味とか、解釈の及ぶところでない。谷間を眺める。毎日見ているところであるのに、ある日のある時に、驚くべき幽玄の世界を感じさせるような、引きつける躍動が起こる。これが美というようなものと言ってもいいのだが、いよいよ曖昧である。
具体的には空間の動きが、突然眼前に現われて、見えるという感じだ。この空間の充満、充実感は、とても精神を充足させ、共鳴するような何かがある。それは光とか、色とか、そういう具体的な要素で出来上がっているのは、当然のはずなのだが、どうもそうした肉眼的なものを越えた、あるものを秘めているような、神秘性がある。私は現実主義であるから、霊的なものは全く認めないので、ここに見えているものは、実は私の視覚的なものを越えた、例えば、地場的なものとか、紫外線や赤外線のようなものが作用しているのかと考えることがある。音でいえば、人間の耳には聞こえない周波数の音が存在して、音に深みを与えている。人間が見えているという範囲以外の要素が、見えている結果に影響を与えるというような意味だ。何故かと言えば、そういう力の充満のエネルギーを感じるような場所に出会うのは、活火山の周辺ということが多い。肉眼に見えているものだけでない、様々な要素が空間にはあると思わざる得ない。
私はそういう自分の中の何物かに、共鳴してしまうものに素直に受け取り、反応して描こうとしてきた。その謎を探ろうというのではなく、美の現実として受け入れて、写し取ろうとしている。そしてこういうエネルギーの満ちたような感じを、美というものと名付けていいのではないかと考えている。しかし、それはいわゆる美というものではないのかもしれない。私は蘭科植物が好きで、栽培も交配もした。山に登って高山に咲く、蘭ほど美しい花はないと思った。しかし、この花が美しいという意味が、絵画における美と同じに考えていいのかである。同じ花を久しぶりに見て、ああこの花のこの美しさに気づいていなかった、ということが最近良くある。何故、その美しさを感ずることが出来なかったのかと言えば、美に対する認識、感受性が低かったとしか言いようがない。美は学ぶことで成長するようなものらしい。美を知るには、生きるという深さと時間が必要だったようだ。あくまで私の場合という意味である。(ブログはここが難しい。そういう見方を押し付けているように受け止められる場合がある。)
美を描きとめる意味は、時間が経過して美について考えていたことを確認した方がいいからである。美は一筋縄ではいかない。以前には気付くことの出来なかかった美に、気付くということがある以上。これからも気付くことに出来る美があるのかもしれない。マチスの絵を見ていると、その美の奥行きにびっくりすることがある。子供の頃もマチスの美しさは知っていたが、今になって初めて、なるほどそうだったのかと気付く美が存在する。マチスがたどり着いた美の奥義の様なものの深さが、及びもつかないほ深いと思う。だから、眼前にある現実というものも侮ってはならない。刮目してみなければならない。たぶん見えているものはほんの一部に過ぎないのだろう。美というものはそういうすべてへの入り口なのようなのだ。