学校5日制
学校5日制になって、また6日に戻るようだ。理由は学力が低下した為とされている。これは間違いだ。授業など増えたところで、学力が上がるなどあり得ない。勉強とは自分でするもので、したくなければやるべきものではない。義務教育というものは、親の受けさせる義務で、子供に受けなければならない義務などない。これは私の中学生の時の屁理屈であるが、今もそう思っている。学校で教えてくれることなど知れている。そんな物が役立つのは、受験のときだけである。しかし、自分で知りたくて学んだものは、実に役立つ。だから、学校など週3日ぐらいにして、後は子供の自由選択にしてもらいたいものだと考えてきた。週5日制が教員の労働条件の改善と結びついたところが、間違いだった。子供のために学校へ行く日を減らすべきなのだ。そんなことをしたら、企業に役立つ人間が出来ないと、たぶん政府は思いこんでいる。知識を詰め込んで競争させて、嫌なことにも耐えうる人材を企業が求めていると思い込んでいる。たぶん世間でもそういう人が多いだろう。
大きな間違いである。ノーベル賞を採るような人がいやいや勉強をしたなどということは、ありえない。未来を拓く企業が必要としているのは、未知の創造的な発想を持った人である。やりたくて自ら勉強をした人の世界だ。中国や韓国は強烈な受験勉強の競争を行っているが、ノーベル賞受賞者は居ないようなものだ。本当に未来を切り開くような学者は、学校教育の詰め込みなどで出てくる訳がない。オリンピックの金メダルとは違うのだ。今だかつてないものを発想する能力は、感性の問題である。そういう人間が生まれるためには、子供のころから、新発想の感性を伸ばすことだ。押しつけ、詰め込みは、無駄な努力である。農業をやって居るとそういうことは良くわかる。優れた農業者が、受験教育の場面でも優れていた、などということはない。
先日、自然農法の石綿さんから、自然農法をやっていながら、猪が採れないようでは話にならないと怒られた。石綿さんによると、子供のころシートン動物記を読んでいないからいけないということだ。私は石綿さん以上に、長時間シートンを読んだ。しかし、猪は捕れない。石綿さんは実際的にイノシシに対しながら、読んだということだろう。学校など3日ぐらいにして、あとは自由に好きなことを好きなだけやれば、人間本来の能力が育つ。その好例がフィンランドである。学力が世界で一番高いとされる国である。フィンランドの学校は、年間授業日は190日ほどである。日本より40日ほど少なく、先進国中最低の日数である。塾もなく、校外や家庭での勉強時間も低い。生徒たちがソファーで休んだり、授業中に歩き回ったり、友達同士で教えあう授業風景だという。16歳までは他人と比較するためのテストはないし、長期的な能力別指導や順位付けも否定されている。
教育とは何かを、それぞれの立場で、実際的に考えてみる必要がある。日本社会が失っているのは、新鮮な発想である。今だかつてない世界に取り組む勇気がない。そのために、ありきたりの先入観に縛られて、授業時間が長ければ、能力が向上すると思い込んでいる。日本人が能力が高かったのは、自然に密着しながら、近代社会を構築したからだ。里地里山の中に暮らし、田んぼや畑に接しながら暮らした。俳句や、版画を日常的に作りながら、勉強をしたから他民族にはない、素晴らしい発想力を持てたのだ。そうした独特の感性の養い方が、西欧諸国にはない自由な発想を生み、産業的にも先端を切り開くことが出来た。それが、学校のつまらない勉強に追われて、大体のところ失われている。まずは、親が週に2日子供と過ごせないという現状がある。忙しい社会である。だから、学校に行かせて置いた方がましだ。こんな親の暮らしでは、この先はますます危ういだろう。
昨日の自給作業:草刈り1時間 累計時間12時間