情の民族の一子相伝

   

歌舞伎界では、中心になる役者ふたりが歌舞伎座の落成を待たず、相次いで亡くなられた。相撲が八百長問題で落ち込み、今度は歌舞伎である。江戸の伝統文化が大きな荒波にさらされている。時代の変わり目と言う風に受け止めていいのだろう。奈落に墜落し、危うく一命を取り留めた役者の事や、暴走族に殴られて大けがをした役者を含め、歌舞伎座の取り壊しから、祟りが起きているかのように言う人がいるがそんなことではない。歌舞伎座を建て替えることに伴う心労はあっただろう。歌舞伎役者が銀座で大建築物を作るということは、大変なことに違いない。団十郎と言う人は見栄えの良い役者である。こういう役者顔はそう簡単にはできない。パリのオペラ座で公演し世界に日本の文化がどれほどのものかを、示すことが出来た功績は大きい。江戸時代に生まれた、一子相伝の世界に誇れる文化である。親から子にしか伝えられない芸である。江戸文化に存在する、日本的なるものを継承できるかが、瑞穂の国日本、水土の国日本の正念場である。

能の梅若さんの長男の方の絵を指導していたことがある。その縁で能は時々見せていただいた。その長男さんは舞台を普通に歩く。あの能独特の歩き方ではない。ところがすたすた歩くように見えて、魂が幽玄に乗り移り、この世ではなくなる。その品格を身につけている。技術で言えば、上手に歩く人は他にも居る。しかし、あの長男さんのように、向こうの世界へ通り抜けることはない。何故だか理解はできないが、生まれが違うとしか言いようがない。声が違うと言う事も、声帯自体が違うのではないかと思えた。百姓と言うものも実は一子相伝の世界である。鍬の扱いが違う。子供の頃からやらされるわけではないが、身についているこなしかたがある。百姓の目と言う一番大切なものを持っている。こういう世界も終わりになろうとしている。これも一子相伝の世界である。にわか百姓としては寂しい所である。

しかし、私も父から伝えられたことで生きている。今ここで書いている考え方も、ほとんど父の考え方である。父ならどう考えるだろうかと聞いてみることもある。様々な話しをよくしてくれた。話に熱中して朝になると言う事もあった。民俗学をしていたから、そこから学んだ日本人の事をいつも考えていた。和歌や書に関心があり、私の絵についてもそう言う眼で見ていた。笹村の家から出るために、イズルと付けたのに、いかにも笹村の家の人間になったと言っていた。百姓の暮らしもそうだ。暮らしかたのいちいちが、親のやり方を見て真似るしかない。いつの間にか身についている歩き方である。学校で学ぶというようなものとはまるで違う。一子相伝は能や歌舞伎のような伝統文化の世界だけではない。ごく当たり前の百姓にとっても普通のことだ。いわく言い難い、作物に対する目はそうして培われたのだろう。それが世界一の米作り、麦作りを生み出した。水土の国日本の最も誇るべき伝統文化である。

この背景にあるものは、情の世界ではないかと考えている。日本人の特徴は人情である。江戸時代の福祉事業は情である。ものの哀れ、情けは人のためならず。支え合う功徳。これは良い面である。怖い面で言えば、情けが軍国主義にも一気に流れる。特攻隊に行ったのも民族に対する情である。大東亜共栄圏を情で見てしまった。日本人ほど情に厚い民族はめったにない。こういう感情は外国には通用しない。日本文学を見れば分かる。山本周五郎、藤沢修平、深沢七郎、あの理性的である漱石さえ、情に棹差せば流されると書く。日本の文化は一子相伝でしか伝え難い「のようなもの」で、出来ている。その背景にあるものが情と言うものだと思う。情を育む環境の大切な所が、稲作水土文化。だから、憲法は硬性憲法でなければ危ういのだ。一時の感情に流されやすい民族なのだ。

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