種を蒔く
種を蒔くのは面白い。芽が出て成長するからである。まるで無から有を生み出すような姿だから、それだけで満足してしまう。以前、アサヒさんという芸術家が、朝顔の種を町中に蒔いて歩いたことがあった。隠れて蒔いてしまうのである。アサヒさんは自分が住んでいる町がいたるところ朝顔に成る事を想像したのである。種を蒔くと言うことは、それだけで面白い。これが、石を撒いて歩いても面白くも何でもない。種を蒔く、何か文化活動とか、偉人の業績とか、教育の分野などでも使われることがある。農民画家と呼ばれたミレーには、種を蒔く人という作品がある。その絵に触発されたゴッホも模写のような絵を描いている。日本では考えられない蒔き方である。ばらまいているという姿。ミレーの絵はまだ暗い早朝から種を蒔く農夫かもしれない。
六条大麦の種が1800粒(70グラム)目の前にある。この種を蒔くと、5坪に成るそうだ。実れば5キロの収穫に成る。71倍に成るということである。ヨーロッパの小麦作りは5倍に成るというようなレベルから始まったらしい。この種の蒔き方を見ると、さも在りなんと思う。地べたがいい加減である。こんなに大雑把に撒き散らしたら駄目だ。まっすぐ、筋蒔きにすべきだ。アジアでは昔から、ばら撒きなどしない。なにしろ麦の収量の世界記録を作った人は、麦を移植したと言う。田んぼではやっているのだから、苗を作ってということもあり得る。大麦は世界最古の農作物ともいえる。メソポタミヤやエジプトの古代文明では、すでに麦を作っている。日本にも弥生末期にはわたっている。麦作りは、日本の気候にはあまり適していないと思うが、日本人らしい勤勉と、繊細さで独特の作り方を完成する。小麦の品種の開発でも日本は群を抜いていた。
麦は穂が大きく、分げつを良く行い、背丈が低いほど収量が上がる。現在でもそうした改良品種が新しく出て来る。世界中で作られていた麦を、日本人が画期的な品種改良をし、お米と二毛作したという日本の自給技術のレベルの高さはすばらしい。そうした勤勉な農業は消えてしまった。私は実験的にもう一度やってみようと考えている。田んぼだった後に5坪だけ大麦を蒔いてみる。果たして、大麦を収穫した後、田んぼが出来るかどうかである。何度かやってみたが、出来なかった。余りの忙しさと、梅雨時の麦の収穫が難しすぎた。5坪だけだが実験をしてみたい。
話は遠回りしたが、種を蒔き芽が出て来るのは、面白くて仕方が無いのだが、収穫することにはあまり興味が湧かない。これが弱点である。「収穫を問わず」と言うような精神論的な意味ではなく、単純に興味が薄くなるということである。大豆でも土中緑化法と言う栽培技術にはとても関心があるが、いざ収穫となると面倒くささが先に成る。もう終わったことのような気がしてしまう。増して、収穫物の販売は気が重いことに成る。これは農業にかかわる人の傾向かもしれない。それなら、どこかの農場の農夫にでもなればいいかと言うと、人に言われたことをやるのも好みで無く、自分の興味に従って、種を蒔き眺めていたいという、すこぶるわがままな願いだ。昨日ビーバートザンに買い物に行き、ついホウレンソウの種を買ってしまった。ホウレンソウが上手く成長するような土に成ったかが、又試したくなった。