ボランティアの意味
暮らしの置かれた状況が変わってきている。一人の世帯、2人の世帯が増加している。しかも、人口の老齢化は年々進んでいる。こうした変貌の中で、地域の暮らしをどのように考えればいいのか。行政には予算が減少している。しかし、行政が行うべき役割は増加している。この穴埋めに、ブランティアを想定するという考えは、必ず行き詰まる考え方だ。市民参加と言う意味がボランティアと言う事とまぜこぜになり使われている。これからの行政の役割、市民のあり方を考える必要がある。ボランティアは地域社会が崩壊しはじめた中で、緊急的に行われている、重要な仕組みであることは確かだ。多くの人の善意で、地域社会が支えられている。しかし、江戸時代の農村のような、暮らしを共有する社会における、支え合いの仕組みと、現代のように、生活基盤を事にするものが地域に暮らす形では、支え合いの仕組みは異なる。地域コミュニティーを補う、テーマコミュニティーの形成が不可欠だと考える。
行政はボランティアの呼びかけをしてはならない。これが基本ではないだろうか。行政が直接呼びかけを行った段階から、それはボランティアではないと考えた方がいい。まして、自治会を通してボランティアの募集が行われる場合は、行政の指示を含め、充分なその意味付けの検討が必要である。ボランティアとは、個人が何ものにもとらわれない自由意思で行う、善意で行う、その人自身の為のものである。ボランティアで行っていることは、行う人間が自らの意思だけで行っているのでなければならない。無償の行為であるが故に尊いことであり、意味があるのだと思う。震災ボランティアと自衛隊の災害復旧とは、同じことをしているにしても、その意味合いは違う。地域で人間の営みが行われるためには、必要な多様な活動がある。それはボランティアと言う形でとらえない方がいい。それでも今の所心ある人の行為が、地域を支えてくれている現実がある。多分、そうしたものが無ければ、地域は維持できていないだろう。
例えば小田原で言えば、農協は農業テーマのコミュニティーであろう。各地域に存在する、生産組合はどちらかと言えば、実態が薄れてきている。専業農家ではない人が大半の状況では、実質的な動きはほとんどない。舟原に来て10数年に成るが、舟原の生産組合で何かをしたということはないとおもう。しかし、農協からの直接の呼びかけは継続してある。今度もイノシシの駆除の講習会があると聞いた。イノシシ被害の増加は、すでに地域の農業の継続を脅かしている。地域でこうしたことにどう対応するのかを考えなければ解決できない所まで来ている。例えば道路にブリキのつい立てを置かせてもらっている。これは地域の方の理解がなけえば出来ないことである。私の育った矢奈々氏の山村では、夜間犬を話す事は奨励されていた。
生ごみクラブは、いわゆるブランティアの活動である。市のごみ減量と言う目的に、生ごみの堆肥化と言う形で協力してきた。誰かの為と言うのではなく、ごみを減らし、堆肥を農地の戻すという事が、小田原の暮らしをよりよくするものだと、信じて活動している。段ボールコンポストの発案は市民である。市がその考えを評価し、行政の事業として行うことにした。そして協働して事業を進めて3年である。この市民協働のあり方は参考に成ると考えている。参加している人は、興味があり、楽しいから参加している。そしてそれが、小田原市の暮らしの為にもなるということに喜びを感じている。どこにも強制はない。ボランティアで無いと言うと、経済活動なのかと考えるが、そうではない。3年が経過し、この位置づけをどうして行くか結論を出す時期にあるのだと思う。