民主主義という課題

   

民主主義は最近限界に来いるという議論の立て方を見かけるようになった。確かに民主主義を越えた政治手法の提案が伴うなら、興味深い考察なのだろうが、大抵の場合現状の政治惨状を見るに絶望する余りの嘆きにすぎないようだ。民主主義は今までのところ日本で成立したことはない。民主主義が成熟した市民の存在というものが、誕生した時に本来の機能を発揮するものである。日本の戦後民主主義は成熟どころか、立ち枯れが目立ってきている。アメリカによる日本的社会という、独特の市民意識を軽視した、無理やりの民主主義が市民の成立を阻んでいるのではないか。いわゆる市民団体の運営においてすら、民主主義的ルールというものが、本当の意味で成立している場合は少ない。まして、政治組織などは、何時の権力闘争も怨念と私利私欲にかられた、醜いものに見えてくる。特に、原発事故に対する政府やマスメディアの情報隠しと、間違った誘導は民主主義の衰退そのものである。

民主主義において、情報の共有化は最低限の条件である。情報が偏在し、デマが飛び交う中では、一人ひとりが正確な判断を行うことは極めて難しい。私のこのブログも、全くの知識も情報も無い、ごく普通の一人の市民の考えを示そうとしている。レベルは低く、バカバカしいような間違いを犯しているのだろう。それでも少しは考えは持っているという事を示そうとしている。考えを持つことが、まず民主主義成立の原点である。その意味では、民主主義が機能しない一番の原因は情報隠しである。放射能の内部被ばくの危険性についても、情報は錯そうし不安が増幅し、極論が極論を増幅しながら、飛び交っている。情報隠しに始まる政府のごまかしの姿勢が、政府情報に対する信頼性が全く無くなっていることによる。学校での学童の被ばくの上限が20ミリシーベルトと一度は出された。その根拠も無く、後になり覆された。500ベクレルは今100ベクレルに変わったが、その値への信頼性も薄らいでいる。

つまり、情報化社会と言いながら、情報隠しを、情報操作を政府が普通に行えば、民主主義は育たない。その結果が、国民が政府を信頼していないということになる。つまり民主主義が限界に達しているのでなく、政府も、行政も、司法も、国民を信頼せず、民主主義を尊重できないでいる国なのだ。政府が民主主義を一番避けようとしているように見える。日本における民主主義はこれからの課題だ。では民主主義とは、何か。日本国憲法ではその前文の書き出しで「主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。」と述べている。この文面で重要なことは、主権在民の思想である。厳粛なる信託による、選挙で議員を選ばなくてはならない。

厳粛なる信託を与えるにふさわしい、議員を作り出す制度を必要としている。これを作り出す義務が国に託されていると憲法では書いている。今、マニュフェストで示した政策ですら、ずるずると撤回している。こんな議員、厳粛なる信託を与えることはできない。約束を守らないで、いい訳だけを述べている政治。民主主義を作り出すためには、選挙で正しく見るということだろう。ところが、マニュフェストというものの信頼が薄れた。このままではいよいよ正しい選択が出来ない。民主党の場合、本来の民主主義であれば政権を放棄すべきだ。出来ないマニュフェストをきれいごととして並べていた。マニュフェストに掲げた政策に対して、全力で当たったとは思えない。と言って、選挙前から消費税は必要だと考えていた。もう少しマニュフェストを練り上げる力量を持たなければならない。

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