帰宅困難者

   

東北で8,8(9,0に訂正)の巨大地震が起きた。太平洋側一帯が街が消えてしまうほどの、巨大津波で大変な事態になった。盛岡の兄とも夜になってやっと連絡がついて、被害はあったが無事であるということだった。地震が起きた時は、銀座の一枚の繪の画廊に居た。風月堂のビルの3階である。3時からみんな集まり、打ち合わせをしようというときだった。人が集まり始めて居た時で、40名ぐらいが居合わせた。気が動転して、どのくらい揺れていたのかが分からない。どうすればいちばん安全かと思いながら、絵が壁から落ちないようにと押さえていた。記憶にある限りこのビルはあったのだから、相当に古そうで耐震は大丈夫かなど、あちこち柱や梁を眺めたが、揺れるには揺れたがひび一つはいらなかった。廊下の方にでましょうと、画廊の方が言われるので、揺れる中廊下に皆さん出た。何故廊下の方が安全か分からず、画廊の中に居るうちにだんだん収まった。

3時から水彩人の打ち合わせということで、そのまま余震の中打ち合わせを続けた。次回の秋の川崎での12回展のおおよそのプランが決まった。そして4時ごろから早めにオープニングをしようようということになり、集まった人でパーティーをした訳である。展覧会のことの方が頭に一杯で、地震の状況など把握していなかった。そのうち見える方から状況が伝わり、東北では大変なことらしいということに気がついた。自分達は、帰れないということ。7時までは画廊に居られるが、その後どうするかである。お弁当を買ってきてくれた人が居た。夕食が食べれないといけないというのである。気が付く人が居る。ともかくそれを食べましょうということで、食べてからどこへ行くかになった。戻ってきた人によると、どこの飲み屋も一杯では入れないという。歩いて行けるところで良いところはないか。このころには携帯電話がかかりにくくなる。

Sさんが自分の息子のマンションが近くにあるので、そこまで行こうとなる。街に出るとすごい人の波である。どこに向かっているのか、銀座中の道という道を人が埋め尽くしている。路は流れがあるのだが、大きく言えば、海の方から離れるように歩く人が多かった。途中交番で警官に状況を聞いたが、全く情報を持っていない。一時間ほど歩いて、マンションに着いた。17名の集団で、何しろ年齢が年齢で急げる訳もない。また歩くような靴でない人もいる。人の波に逆らって歩くというのは、遅いものである。その超高層の高級マンションのロビーは豪華ホテルのようであった。暖炉があり大きなソファーがある。そこで朝まで居させてもらったのである。中にはコンビニやトイレがあり、少しも困らなかった。住民の方には目障りなことであったかもしれないが、朝まで暖炉を付けていてくれた。感謝するばかりである。震度3ぐらいだと、そのビルはほとんど揺れない。朝5時に成ってやっと家に電話が通じた。家は何んの問題も無く、無事だった。

大都会というものは、実に危険な場所だ。出掛けるときには、情報の確保が必要である。携帯はすぐダメになるから、ラジオとか、良く分からないが、携帯パソコンのメールなら大丈夫だとかいう人もいた。あれほどあるコンビニの食べ物は無くなる。24時間営業のお店も、忽ち閉まってしまう。足元は歩きやすいというのも大事。頭には帽子はどうしてもいる。遠からず、関東でも大地震を覚悟しておかなくてはならない。できるだけ家に居るということだが、どうしても出かけるときは、色々身につけて出かけようと思う。帰宅困難者という耳慣れない言葉は自分の事であった。17名のみんなで行動できたので、とくに不安もなく、無事家にたどり着けた。原子力発電所が、想定外の大地震で危険になっている。一日も早く原子力発電を止めるしかない。今回がその転換の機会になればいいが。

 - 水彩画